徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

マウントを取りたがる人はまず仕事をしてない

 当たり前だが、マウント行為を仕事とは言わない。にも関わらず、部下やら後輩やら、学校であれば生徒やらといった、自分に逆らえない立場の相手に対してマウントを取って、何か立派なことをしたと思い込む残念なリーマンや教師というのは多い。だが、マウント行為というのは、別にそれだけで経済的な価値のあるものを生み出してる訳ではない。モノを作っている訳でも、サービスしてる訳でもない。むしろ部下や後輩に、サービスさせてると言っていいだろう。要するに、何も仕事をしてないという訳だ。無職や生活保護がやたらと役所や病院で偉そうで、店員にマウントを取りたがるのも似たようなものだ。

 

 マウントを取りたい人というのは、多分、仕事がない、できないのだろう。以前、とある芸人が闇営業で表舞台から消えたが、この芸人について、テレビで見るたびに僕が思っていたのは、「こいつは芸人なのに何一つ面白いことを言わない、それなのにやたらと他の芸人を貶したり見下したり、マウントを取るのには必死だ」というものだ。要するに、芸人としての仕事を何もしていないのだ。その癖プライドは高く、自分がイジられそうになると激昂し、必死に面白いことを言おうとしてる人間を嘲り、話してる途中で遮る、最低の人物という印象だった。面白くないならせめて、後輩に優しいとか、他人の良さを引っ張りだすとかそんなところがあっても良さそうだが、そういったことが一切ない、ただひたすらに見ていて不快なだけの人物だった。こんな小物でも、何かの偶然で大御所にも近いポジションにふんぞりかえることができるとは、芸能界とは異常者の世界かと思ったものだ。だがやはり、積み上げてきた徳がない分、消える時はあっさり消えた。そして誰も、二度と戻ってきて欲しいとは思っていないようだった。

 

 その芸人のがyoutuberとコラボして、焼肉屋を開くという企画の動画を見たことがあるが、その内容もひどいものであった。自分の店であるのに、他人事のようにただ出された肉を「うんまっ」とか言ってるだけで、一切自分の考えというかアイデアを言わない。要するに、ここでも何も仕事をしていないということだ。彼が芸能界にいる時にずっとやってきたことは「マウント行為」であって、芸人としての仕事は何もやってこなかった。村社会が平和に続けばそうしたマウント行為を続けることで繁栄できる人もいるかも知れないが、このグローバル化・多様性が謳われる今の時代に、マウント行為だけに磨きをかけて村社会だけで姑息に生き残ろうとするのは自殺行為だろう。勉強をしなきゃいけない。芸人なら笑いの、焼き肉屋なら肉の味やら牛の育て方やら飲食店の経営方法やら、読むべき本がいくらでもあるだろう。他人にマウントを取りたいなら読書くらいするべきだ。まあ不思議なことに、人は本を読めば読むほど謙虚になるのだが。本を読むということはそれだけで、人間としての責務を立派に果たしてることになる。つまり、仕事してるということだ。きっちり自分の仕事ができていると、自分で自分を認められるようになる。そうすると、他人にいらないマウントをとってちっぽけな承認欲求を満たすために陰湿な行為をする必要もなくなる。要するに、仕事をすればいいというだけだ。

 

 だが、日本の労働生産性を見ると、日本人は職場には長くいてもまるで仕事をしていないことが分かる。仕事をしないから、自分で自分を認めることができなくなる。自分で自分を認められないから、他人に認めさせようと、マウントを取ったり下らない仕事を押し付けたりするようになる。仕事してない癖に、他人には仕事してると思われたい人間がするのが、マウント行為なのである。マウントの取り合いが仕事になるのは猿の世界だけである。つまり日本人の多くはお猿さん🐒なのである。