徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

布マスク…スカスカじゃないか?目が荒すぎない…?

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スカスカだぜ!


 安倍総理が考案した革新的・画期的な発明である布マスクの外貌が明らかになっている。で、その画像が下のものになるらしいのだが…


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えっ…



目粗くない?


目粗くない?大丈夫?


スカスカだぜ!


 いやどっちにしろnm単位の世界のウイルス粒子なんて防げないけど、目粗すぎじゃないか?細菌すら防げないんじゃないか?マスクは感染予防にならないから、むしろくしゃみとか咳による感染拡大防止の意味合いがつよいけど、それにしても目粗すぎじゃないだろうか。iphoneのカメラの性能が良すぎるのだろうか?(何で撮ってるか知らんけど)これじゃくしゃみとか咳での飛沫感染も防げないんじゃないだろうか。霧のように巧みにこの糞みたいに粗い目を通り抜けて感染するかも知れない。


 …というかこのレベルの布マスクなら各家庭で作れるんじゃないだろうか。別に特別な布を使ってる訳でもないようだ。政府は作り方だけ公開して、後は各家庭に任せればよかったのではないだろうか。郵便配達なんかにすれば、それ自体で感染のリスクが高まる気がする…それを押し切って配布するということは、日本政府はよほどこの布マスクというアイディアに誇りを持ってるらしい…。シュヴァイツァーに劣らない貢献だと思っているのだろう。安倍総理は令和のシュヴァイツァーだと後の世に語り継がれる妄想をしているのかも知れない。いやシュヴァイツァーは私財を投げ打って人のために尽くしたのだから、私財どころか国民の血税で布工作をして遊んでるからひどい話である…。


 多分不勉強な安倍さんのことだから、ウイルスの大きさとか性質とか細菌との違いとか、そんなことあまり詳しくないんだと思うが…いや流石に知ってるかな?知ってるよな?うーん…。後は「政治がイカれていることが国民の精神状態・免疫力に与える悪影響」とか研究してみたらどうだろう…歴史に残るような論文ができると思うがなあ…。


 


「いいこと考えついた…!布マスク配布します!」

「なるほど!流石総理!布マスクなら洗って使いまわせるし、この機会に布マスクの良さを国民の皆に分かって貰えますね!」

「そうさ、僕は現金なんかを配るより、布マスクを配ることで、国民の命を守りたいと思ってるんだ。命あっての金だからね」

「なんて優しい総理なんだ!」

「それに、僕は東京オリンピックを何が何でも実現させたいと考えてる。そのことを考えたら…現金配布なんて有り得ないと思うんだ。大切な、オリンピック資金だからね」

「素晴らしい…」

「総理最高!」

「よせよ、あくまで国民のためにやってることさ…」


 ブラック企業で突然謎の社内ルールが出来上がる。「今度から朝は皆15分早く来るようにしましょう!」「今度から書類を通す時は〜部署を通しましょう!」挙げればキリがないが、大体どこのブラック企業でも、余計な手間が増えるだけで、作業効率が悪くなるだけであり、残るのは無駄な作業をルール化した人間の無意味な満足感と達成感にある。


 恐らく政府は「布マスクが繰り返し使えることを発見したぞ!これの使用を国民の皆にルール化しよう!現金配布なんかよりよっぽど有用だ!」とか何とか考えているのだろう。ブラック企業の社長が「社員の皆のためにボーナスを減らした。だが、この機会に早朝出勤を取り入れたから、皆協力して欲しい」とか言ってるのと同じレベルである。いやマジで。


 国が貧しくなってくると、為政者は意味不明な政策を連発するというのは歴史の常だ。大平洋戦争中に敗色が濃くなった大日本帝国が、神風特別攻撃隊という、自軍の戦力・戦闘機をゴリゴリ削る自滅行為を積極的に推しすすめたように。残った兵力を必要な箇所に纏めて犠牲の少ない戦い方をするという当たり前のことができない。今の日本も、残った金を必要な所に回して、そうでない所は節約するという当たり前のことができない。東京オリンピックなんかに使う金があれば、現金を配布すればいいのに、それすらせず、布マスクなんて無駄なものの配布に金を使う。断言するが、配布した次の日には駅のゴミ箱はダサい布マスクで溢れていることだろう。布マスクなんか使うくらいなら、マフラーでも巻いていれば充分間に合う。ツイッターでも配布布マスクを何に使うかという大喜利で賑わうことだろう。


 日本のトップの体質からして、 現金配布は絶対ないだろうと考えていたが、まさか無駄なことをするとは思わなかった。コロナウイルス云々以前に、日本はオワコンということかも知れない。沈みゆく船のなかの残された資源を、生き延びるために使わず、その船の中で自分が威張るために使おうとする金持ちのようだ。


 特攻隊を考えついた大日本帝国の上層は、自分は何か画期的な素晴らしく頭のいいことを思いついたような気分でいたことだろう。そしてその命令を実行させることに、偉大な自己実現を見出したことだろう。今の日本政府もこの布マスクという画期的かつ頭のいい発明を全日本国民に知らしめることに、偉大で崇高な達成感と使命感を感じ、自らをシュヴァイツァーと同一視して自己陶酔してるかも知れない。少し前に森元首相が神の試練だの何だの言っていたように。ブラック企業でポエムが流行るのに似ているかも知れない。


 この状況になっても東京オリンピックが惜しいかと思うと甚だ疑問だ。そもそも開催なんてしなければ金も余力ももっとあって、現金を配れたかも知れない。 良心が残ってるなら今からでも返上するべきだ。競技場は…運動公園か何かにでもするといいだろう。


 とりあえず布マスクが届いたら駅のゴミ箱に捨てておこうと思う。どうせダサいデザインで肌触りが悪く、一度洗ったらボロボロになるだろう。いや、もしかしたら無駄に頑丈に、金をかけてつくるかも知れないが…。




ブロガーは電子書籍を読もう

 社畜を抜け出して小説家になりたくて暫く紙の本を読んでいたが、いかんせん紙の本は持ち運びに不便で満員電車で読みづらく、しかも数ページしか読まなかった時の自己嫌悪というか「これだけしか読めなかったのか…」という落ち込み要素があるので、あまりいい思い出はないし、心なしか、頭痛がしてくるようか気がする。

 

 対してブログの記事やネットのコラムは紙の本でいう所の1〜2ページしかボリュームがないが、それでも新しい見解や同感できる意見などに出会うと、読了後に充分な達成感や満足感が得られる。キーワードで検索できる分、読みたい部分を積極的に選べるのでそこはやはりネット上の文章は圧倒的に優れている。

 

 紙の本にネット上の文章のいい所を取り入れたのが電子書籍だ。今読んでるページしか表示されないから、現在読み進めている内容に集中することができるし、気に入った箇所は簡単にハイライトできる。スマホ一つあれば沢山の本が読めるから、満員電車でもスキマを利用してじっくり読むことができる。電車でしかめっ面をしてるオッさんを見かけた時は電子書籍を読むに限る。こういう時にネットのまとめブログ等を読んでしまうと、大衆的でかえってストレスが溜まるものだ。

 

 電子書籍を暫く読んで気づいたことがある。それは、自分がブログで書く文章のレパートリーが圧倒的に増えているらしいということだ(気のせいかも知れない。が、以前ほど長文を書くことが苦痛ではない)。勿論、紙の本でも増やせるだろうが、紙で読んで電子媒体で出力するというのも、考えたら何ともおかしな話ではないだろうか?そして、電子媒体で読む方が、紙で読んでる時には気づかなかった大事な箇所に気付くのだ。

 

下の二つの画像を見比べて貰いたい。いずれもルドルフ・シュタイナーの名著「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」なのだが、上は電子書籍(ibooksiphoneにデフォでついてる)。下は紙の本(ちくま学芸文庫)である。

 

f:id:potemalu02:20200402175945p:plain電子書籍

 

紙の本f:id:potemalu02:20200402180103j:plain

 

 見比べて見ると、電子書籍は明るく、字が大きくて視野あたりの文字数が少なく読みやすい。対して紙の本は光の加減で妙な陰影がつき、しかも1頁あたりの文字数が多く字が小さい。

 

 学校の勉強でもそうだが、沢山の内容を短時間に過剰に扱うと、それだけ脳の情報処理は雑になる。逆に、じっくり、丁寧に、見やすい大きな文字でしっかり理解しながら熟読する方が、圧倒的に知識は身になるし、結果としてスムーズに読み進めることが出来て最終的には紙の本の方が早く読み終わることが多い。そもそも日常的に仕事や娯楽において電子媒体の文字をスマホやパソコンで読むことが多い現代人は、本も電子媒体で読む方がより右脳が活性化した状態で読むことが出来るのではないだろうか。電子書籍では理解が浅くなるという人もいるが、紙の本の方が読むことそのものに意識をとられて読んだ後に何も覚えてないということが多い。きっと、電子書籍の方がリラックスして読めると思う。

 

 寝転がってリラックスしながら読むことができるのも電子書籍のいい所だ。紙の本だと腕が疲れてとても無理だろう。それに、ブックカバーを強いられる紙の本はいちいち探すのも面倒くさい。読んでいると「読まされている」気分になる。

 

 とはいえ、紙の本もいいところがない訳ではない。まず、出版されてる本の種類は圧倒的に紙の本の方が多いので、内容も当然紙の方が深い。加えて、本屋で本を探す時のあの独特の気分の高揚感は、紙の本でなければ味わえないだろう。ネット上で探す時は、調べ物をするのと変わりない。しかし最近は、本屋で読みたい本もないだろうにしかめっ面してウロチョロするうっとおしいオッさんオバさんが増えた気がする。本屋という静粛な空間でやたら足音を立てたり人の背後に立ったり読みもしないのに棚を眺めている変態じみた人たちが多い。僕の気のせいかも知れないが。

 

 さてタイトルから大幅にそれてしまった気がしないでもないが、とにかく、ブロガーを目指す人にとって電子書籍での読者は非常に捗るということが言いたかった。電子書籍での読書に慣れると、通常の紙の本も理解しながら早く読むことができるようになる…気がする。とはいえ、こらからの時代、人類に貢献するのはやはり電子媒体の文章であろう。電子媒体の出力で成功を目指すなら、電子媒体の入力での学習が一番いいだろう。

 

最後に、紙の本を紹介しておく。

 

 いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか (ちくま学芸文庫)

休みの日は一生懸命何もしないに限る

 「休み日何してるの?」ほどイラつく質問ってあるだろうか?別に一日布団の中でスマホいじろうが、ぼーっと近所をあてもなく浮浪者のように徘徊してようが、エロ動画求めてネットサーフィンしてようが僕の勝手だ。


 所が巷では、休みの日はやれスポーツだのフットサルだの、サーフィンだのスキューバダイビングだの、サイクリングだの旅行だの、ショッピングだのグルメだの、仏閣巡りだの、彼氏彼女と動物園だの水族館だの美術館だの遊園地だのディズニーランドだのユニバだのスタバだの行くのか「正しい」休日の過ごし方らしい。意識高い人になるとTOEICの勉強したりスポーツジムに通っている。


 インスタグラムだのツイッターだので意識の高い休日を過ごしてる人が沢山いるが、別に一日寝て過ごして何の問題がある?猫を見てみろ、一生の大半を寝て過ごすが、彼らは可愛らしく、多くの人に癒しを与えている。もし猫が一日中あくせく忙しそうに働いて回る生き物だったら、あんなに愛らしくはならなかっただろう。


 休日に「何かして過ごそう」と気張ると、それが緊張感を生み、交感神経が亢進してストレスが溜まり、かえって休めなくなる。友達と遊ばないとストレスが溜まるという人がいるかも知れないが、その友達は恐らくそんな人といることがストレスになるだろう。何度も書くがインターネットが発達して多種多様の人とコミュニケーションが取れるようになった現代、労力を使って人とface to faceでコミュニケーションをとることに、さほどのメリットはない。そして、人が書いた文章を読んだり、人が作った創作物(漫画や音楽、ゲームや映画など)を味わうことも、立派なコミュニケーションなのである。


 コミュニケーションはface to faceの場合の方がうまくいかない方が多いのではないかと思う。身近で親しい人との会話を思い出して貰うと、殆ど意味のない会話ばかりではないだろうか?少なくとも僕はそうだ。それは家でも会社でも変わらない。上司は何を指示してるか意味不明だし、家族は僕の話なんて聞きやしない。学校でも、教師が何を喋ってるか意味不明な人の方が多いのではないだろうか?


 人が時間をかけて丁寧に使った文章や創作物に比べて、単なる会話から得られる情報は実は驚くほど少ない。いや、手ぶりや身ぶりなど非言語コミュニケーションが大事だという人がいるだろうが、それならアイドルや政治家やお笑い芸人でも目指した方がいい。少なくとも僕にとっては非言語コミュニケーションはいらん忖度を要求されてるような気分になりイライラするだけだ。言語で明快にコミュニケーションをとる方が面白い。そんな人には、人が作った創作物の方が楽しいコミュニケーションに感じられるのかも知れない。


 そして、単なる日常会話には嘘が多く、真理を求めて渇いた魂は疲弊するだけだ。親も教師も上司も、基本的に嘘しかつかないと思って差し障りない。それに比べて、ネットの記事や創作物というのには嘘がない。何故か?基本的に創作物は自分と向き合うことから生まれるし、自分と向き合った人の言葉や表現には嘘がないからだ。常に他者の目線に晒されて自分を見失いがちな現実でのパリピ的なコミュニケーションに対し、創作物を介したコミュニケーションは自分と向き合ってからそれを他者に見せる分、嘘がなく、かえってその方が他者と真に理解し合えるのだ。


 そして、他者と真に理解し合うには、別に面と向かって合う必要はないし、相手に顔を覚えて貰う必要もない。真の親友が離れていても心は一つというのに似てなくもない気がする。霊にとって時間や空間が意味をなさないのに似ている。


 話が逸れたように見えるが別にそれていない。要は休日は何もしなくていいいやむしろ、積極的に何もしないことが大切であるということだ。老子のいう無為自然みたいなものか。優れた創作はかえってそんな状態から生み出されるものだ。太陽のポカポカした光が植物を自然に育てるのに似ている。というか、エーテル体はそういう性質を持ってるのだから、長時間労働なんてホントは言語道断のはずだ。


 「休みの日は何してるの?」と聞かれたら堂々と、「何もしないをしています」と答えられるような社会になればいいなあ。まあ、そんな社会になるよう自然は配慮して、コロナウイルスを生み出したのだろう。神様は本当に賢い。


 

 

労働すると知性が劣化する

 社会人を長く続けている上司や先輩が理不尽なことを言ってくるということは、長年労働を続けているとマトモな知性が失われていくということを意味する。自己保身や責任逃れのために嘘つきになり、言ってることの一貫性がなくなってくる。あるいは、その場その場の気分や思いつきで指示を出すから、言っている内容が自分が過去に言ったものと食い違っていたりする。

 

「なぜ相談しなかった?」

「それくらい自分で考えろ」

 

 このような上司の発言は、ダブルバインドという理不尽の典型例として、もはやお決まりのものとなっている。こういった発言を平気で行える狡猾さというかセコさが、会社の中で生き抜いていくためには必須のスキルなのかも知れないが、自分の言葉に責任を持たないその場限りの思いつきの発言を続けていくと、嘘と真実の区別がつかなくなり、次第に知性が失われていくだろう。

 

 受験勉強では間違った答えを書くとバツがつくので、まだいくらかでも賢くいられるかも知れないが、社会人にとっての「正解」は真実や道徳ではなく、責任回避が出来て自分の昇進に支障が出ないことなので、理性に照らし合わせて間違った行動や発言をしても、バツをつけてくれる人がいない。つまり、自制心がない社会人は、どこまでもおバカになってしまうということだ。人は金さえ貰えれば生きていけるのだから、別にそれで生物の生存戦略として間違いではないが、人間の良心といった高貴な部分は、嘘や道徳的に見て間違ってることに対して本能的な拒絶心を持つように出来ている。シュタイナーは、嘘をつくことはアストラル領域では殺人に匹敵すると述べている。嘘をつく癖がつくと、霊的なことだけでなく自然科学的なことに対しての直観みたいなのも鈍くなる。また、噂話や陰口をしたり、それを鵜呑みにするようになると知性は光の速さで低下する。嘘をついたり理不尽なことを言うと、表面では気づかなくても、心の奥底では、魂は大きな苦しみを感じているのだ。

 

 だから、社会人のように制止してくれる人がいない立場の人こそ、自制心と理性を持って自分の言動をコントロールしなければならない。信念と道徳を持って仕事をすることは、魂にとても良い影響を与える。頭も、鍛えられるのだ。

 

 それにも関わらず日本の会社の多くのオフィス・工場・売り場・舞台裏では、これからも雑談や噂話・陰口が尽きないだろう。彼等彼女らは暇人なのだろうと思うが、暇なら労働時間を減らしてお家に帰ってからLINEでおしゃべりをすればいいのだ。それが、一日8時間働かなければならない日本の悪しき労働習慣のせいで、彼等彼女等は雑談や噂話で知性を低下させざるを得なくなるのだろう。

 

 また、仕事そのものに関しても、成果や中身が問われるというよりも、パフォーマンスとして完成されてるかどうかが問われる風潮がある。だから、やたら大きな声だったり、動作が大げさだったり、ややこしかったり、手間がかかって「そう」な仕事ぶりが評価されてしまう。そうなると、仕事を効率化させようとすることで発達するはずの知性が育まれず、いかに無駄な仕事を最大限自分のアピールの道具に利用しようかと考える、愚劣で卑劣な感性が育まれる。

 

 「幻の桜」というブログにあったことだが、スポーツを賛美するような社会では、このような傾向が強いとのことだ。スポーツのような無駄な動きをする人間を称賛すると、現実社会でも無駄な働きものが評価されるようになるという。そうして、自然破壊や弱いものいじめが横行していったのだという。甲子園が中止になり、東京オリンピックが延期になったことだし、ここらで、勿体ぶって働くことのみっともなさを再認識して、労働時間を減らすことを考えてみたらどうだろうか。

 

 

結婚して子育てするのはもう時代遅れじゃないだろか。子供は多分、勝手に育つ

 ふとそんな考えが浮かんだ。いや、それだとセックスしまくって子供だけ作って放置する親が増えるという人がいるかも知れないが、これからの省エネ質素倹約必須の時代に、そこまで性欲を爆発させる輩がいるだろうか?


 話は飛ぶが、今の日本の牛肉の消費量はとても多い。もちろんアメリカみたいな国と比べると少ないが、日本は長い歴史の中でそれほど肉を消費する国ではなかった。肉を食べると性欲が異常に亢進する。AVが見たくなる。風俗に行きたくなる。職場の女の子とセックスしたくなる。闘争心が高まる。しかしカロリーベースで計算すると、牛肉1kgを生産するのに10kgの穀物が必要となる。食料不足の原因ってこれだろ、多分。いや僕もサイゼリヤのステーキが大好きだから人のこと言えないが。世界で飢餓に苦しむ人たちは10億人。コロナウイルスで自粛ムードも流行ってるし、ここらで牛肉の消費をぐっと減らしてみてもいいのではないだろうか。


 肉の消費を抑え、資本主義が廃れると、無用な性欲は自然と消えて、子作りも人生の必要な時期だけに行われるようになるのではなないだろうか。そうすると、子供が沢山いて困るなんてことにもならないと思う。


 そもそも子育てに必要な資金って、最低でも食費とネット代くらいのものじゃないだろうか?服は同じのを着ればいいし、大抵の娯楽はネットでほとんど賄える。学歴なんてこれからの時代オワコンだろうし、ネットで自由に勉強すればいい。つまり両親のふんだんな収入に頼った英才教育だのスポーツの習い事だのは不要になってくると思うのだ。


 子育てに両親が不要になると、結婚もいらなくなってくる。実際、シングルマザーは増えているだろうし、既に女の人も結婚なんて合わなくなってるんじゃないだろうか。


 そこで独身税を導入して社会全体で子育てしようって風潮があるが、そんなものも必要ないと思う。元の親から食費とネット代だけ貰って、子供達が自分で勉強して生きればいいと思う。独身税なんかとっても、学校の部活の下らないスポーツ用品なんかに変えられて、運動部が大人しい帰宅部の子をいじめるようにしかならないだろう。だから部活も必要なくなるだろう。


 結婚が必要なくなると、女性が男性を無理に競争に駆り立てることもなくなり、ますます社会が平和になる。性欲は古いものとされ、創造的な仕事や楽しみがますます社会に広まり、人類はつぎの段階にレベルアップするのだ。シュタイナーのいう所の木星紀にあたるのかも知れない。結婚制度というのは資本主義時代の負の遺産になるだろう。


 そもそも既婚者なんてみんな常に若い女の子を求めており、会社でも虎視眈眈と若くて可愛い女子新入社員を狙うオッサンばかりだ。そんなオッサン達が善人面してよきパパアピール愛妻家アピールしてるのは滑稽でしかない。断言するがそんな男はこの世にいない。むしろ既婚者であることがモテアピールになるだろうムフフみたいに考えてることが殆どだろう。別にそれ自体は醜いことではないが、立派な愛妻家や子煩悩を装っておきながら、陰では若い女の子との性行為に勤しむというのは最高に醜いから、誠実に結婚制度というものを無くすべきだと思う。そもそもインターネットが発達して男女両方の性根というか醜さというか、そんなのが赤裸々になった今、永遠の愛を信じようとすることにすら、もはや意味はないだろうし、そんな考えは誠実だけどモテない男への搾取にしか繋がらないだろう。


 結婚制度というのはもともとが砂上の楼閣なのである。資本主義もそうだ。ありもしないものを搾取のために信じさせ、美化することで利益を得ている連中がいたからこそ、作られたものだ。隠すから醜くなる。結婚制度の無理を認め、子供は親から解放しなくてはならない。ついでにいうと、学校からも。そして社畜は会社から解放してあげないといけない。


 そして真に人間的で、永続性のある男女関係というものが、これからの未来では発展していくだろう。木星紀には、性別なんて関係なくなっているだろう。



  

気張って何かをするのは時代遅れ、ブログもそう



 久しぶりにブログを書いていい気分でいても、ネットサーフィンをしてると「アフィブログはオワコン」とか「ブロガーのスタートは最低100記事から」とかウキウキ気分で書いてる僕のやる気が失せるようなトピックが嫌でも目についてしまう。そしてこのはてなブログのトップで紹介されてる記事といえば今日の料理だとか高額商品の使い勝手だとかスポーツ選手のどうでもいい私事だとか横文字だとかでそんなブログが沢山のpvを集めてるかと思うとイライラする。ただの八つ当たりには間違いないのだが、とてもイライラするのだ。


 コロナウイルスパリピ的な価値観の終わりを告げている。即ち…「ガツガツ仕事すること」「ハンガリー精神」「売れること」「有名になること」「バズること」を必死になって追求するのはもう古いということだ。それでも日本人には宗教レベルで「何かを必死になってやること」がいいことであるかのような価値観が染み付いているので、何もしないでいたり、休日を無為に過ごしたり、仕事をしていなかったりすると罪悪感を感じるみたいだ。


 この罪悪感という感情は一見真面目さに基づいているように見えて、その背後にあるのは依存心だ。自分の価値を誰かに決めて貰おうとするから、罪悪感のようなものを抱く。休日の過ごし方についても、旅行だとかデートだとか、人様に自慢できるようなことをしてない人間は異常者の発達障害者扱いされたりする。別に休日に一日中家に引きこもってスマホをいじっていて何が問題あるのだろう?コロナウイルスに感染するリスクも減るし、消費も抑えられ、いいことだらけじゃないだろうか?


 同じようにブログだって、別に100記事を気張って書く必要はないし、99記事だっていい。有名じゃなくていいし、稼げなくてもいい。自分のペースで楽しく書ければいいのだ。そう自分に言い聞かせはするものの、中身がない癖にやたら閲覧数の多いブログを見るとイライラしてしまうのは、嫉妬心みたいなものがあるからなのだろうか。いや違う、クソ記事を見てイライラするのは会社で仕事してるフリをしてる癖にドヤ顔で偉そうにする連中を見てる時に感じる不快感に似ている。


 神ブログ「itスペシャリストが語る芸術」を紹介しておく。毎日更新されており10年以上も続けられている。ボリュームが凄いし、何より凄いのはその中身だ。社会学や心理学、神秘哲学に対する考察が素晴らしく、こういったブログがこれからの日本を牽引していくだろう。はてなブログにもこのレベルのブログが毎日ランキングのトップに紹介されるようになって欲しい。それが無理なら僕のブログを毎日ランキングのトップで紹介するべきである。全ての意識高い系社会人は僕のブログを音読し、アフィリエイトを通して優れた書籍を読んで世界に貢献すべきだ。


itスペシャリストが語る芸術

http://www.kaynotes.com/


 さてこのブログの著者であるkayさんは毎日記事を更新しており読書家で早起きで勉強家であり非常にストイックだが、アフィリエイトだけで生活は難しいという非常に謙虚な方だと言えよう。クソ記事を書いて沢山の広告料を貰ってる有名ブロガーは恥を知るべきである。今日のお前の家の晩御飯など死ぬほどどうでもいいのである。それなら栄養学や植物学の話でも取り入れて勉強になるブログを書くべきである。それか料理マンガでも描くか。


 流行りにのった新商品や新itサービスを横文字を交えて意識高く紹介する人達も、このオワコン資本主義社会に媚びる悪しき連中だと言ってよいだろう。むしろ今の時代に紹介すべきは温故知新的なものがいい。古典とか、アナログな人生の楽しみ方とかである。その方がウケる。絶対。僕の敬愛するルドルフ・シュタイナーは100年も昔の人だが、その語る内容は今でも非常に斬新で、真新しい。先日紹介したヴィクトール・E・フランクルの「夜と霧」も自分の精神生活を充足させることが要求される今の時代に、非常にタイムリーと言っていいだろう。


 ブログでは新しい商品を紹介することがよしとされるが、むしろ古くて誰も見向きもしないようなものの価値を再発見し、それを自分の感性を交えてプレゼンすることの方が、これからの時代のブログでは大事になってくるかも知れない。もちろん、新しい商品やサービスが人を幸福で、自由に豊かにするものであれば、それは多くの人に知られて然るべきだろう。しかし、新しいから、有名だからという理由だけで、注目を集めるためだけにブログの記事にするのはもうあまりよろしいことではないだろう。コロナウイルスという新しいネタをふんだんに取り入れているこのブログが言っても何の説得力もないだろうが、ご容赦頂きたい。


 「SNS疲れ」みたいなものにブログの世界が侵されないことをいつも祈っている。薄っぺらい名言や破綻した論理がバズるのはツイッターの世界だけで充分だと思う。たったの140文字しか書けない世界ではそれでいいと思うが、基本的にいくらでも文字数を増やせるブログという世界で薄っぺらいことをするのは勿体ない。気張って流行や横文字を追求すれば、自ずと中身は薄っぺらくなるだろう。気楽に構えて、99記事できたら完成というくらいの気持ちで、自己を深めるような記事を書いていくのがおそらく良心的?なブロガーのあり方だろう。