徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

試行錯誤=内省=瞑想

 

 だから、自分で色々と工夫したり努力したりして勉強することが大切なのである。日本の教育では失敗を極端に許さないからなかなかそういった人間が育たない。挙句、自分では何の努力も試行錯誤もせずに、その場その場の思いつきを口から出まかせで言うような人間が企業の重役についたり環境大臣になったりするのである。

 

 ブログを書くという行為も試行錯誤の一種で、アイデアを色々といじくり回らしてる時や、文章を練ってる時というのはさまざまな工夫の余地があり、試行錯誤の充分な訓練になる。ブログがメンタルヘルスにいいのは、試行錯誤の余地がふんだんにあるからである。文章を書くことで考えが整理して内省にもなるし、内省になるということはよい瞑想ができるということだ。そして、ブログに限らないが、質のいい試行錯誤のプロセスを持つものは全て、質のいい瞑想になるのだ。

 

 受験勉強やスポーツの練習でも、一人でじっくり取り組んだことの方が、学校や部活でやるようなトレーニングよりも楽しく感じられることはないだろうか?それもそのはず。一人でじっくり取り組む練習の間にはさまざまないいアイデアが浮かんでくる。ああいう勉強法したら効果があるんじゃないか。こういうトレーニングはどうだろう。こういうやり方はどうだろう。

 

 そんな風に妄想を色々膨らませて、実際に自分の手足や頭を働かせてそれに取り組んでいる。成功しようが失敗しようが、そのプロセスそのものが楽しいのである。だからこそ、失敗には寛容にならなければならない。失敗を沢山積むということは瞑想のためのよい材料が沢山あるということた。そしてそんな沢山の材料を元に行われる瞑想(試行錯誤)は必ず人生を豊かにする。そんな体験のない人間の人生がどれだけ惨めでどれだけ卑屈かは、想像に難くないと思う。しかし実際は、この卑屈で惨めな人生を送る人間が大半なのである。それは、成功という名の目先の快楽に囚われて、試行錯誤の楽しさを見失ってしまうことに原因がある。試行錯誤をしなくなるということは自分自身が見えなくなるということである。自分自身が見えなくなると、内省が出来なくなる。だから、他人を搾取する人間は自制が効かずに暴走するのである。彼等は生き方そのものにおいて自分を放棄してきたから、自分がどれだけ惨めになってもそれに気付かないでいるのである。彼等が高次の世界(シュタイナーの言う所の霊の世界)を知ることは未来永劫なく、自分を捨てた代償は、然るべき境遇で償うことになるだろう。他人の善意を搾取するということは、何より自分自身にとって毒なのである。それは試行錯誤の放棄であり、内省の放棄であり、瞑想の放棄である。要するに、人間らしい生き方を、全て放棄しているのである。