徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

死後の地獄とは荒廃した箱庭〔ぶつ森〕のこと

 

 「どうぶつの森」というゲームをご存知だろうか?箱庭療法をゲーム化したようなシステムで、あつ森であれば自分で島を好きなようにカスタマイズして、自分だけの世界(箱庭)を作って楽しむゲームである。木を植えたり建物を建てたり、マインクラフトとかもそうで、人間はそんな風に「好きな世界」を何らかの形で自分らしく作り上げることに喜びを感じるようにできている。ポケモンなどの育成ゲームも、自分の好みのポケモン達とパーティを組んで、自分の箱庭を作るようなものだ。ブログを書くこともそうで、自分の選択と工夫が具象化する世界である。いわばそれらは、自分で自分のための天国を作るような作業だ。さまざまな想いが、少しずつ形になっていく。

 

 この「箱庭の制作」を人生に置き換えて見てみよう。人間は生まれてから死ぬまでの間に自分が経験したこと、自分が考えたこと、自分がしたいいこと悪いこと、自分が磨いた才能や技術、磨いた頭脳や魂、あらゆる理性や感情に命じたことがさまざまな「経験の総体」とでもいうようなものを形作っていき、それが死後に自分が行き着く世界を作る(行き着く、というのは比喩的な表現。魂にとっては自分自身が場であり世界なので、移動という概念は意味を持たない)。死後の世界は夢の世界に似ていて、客観的ではあるのだが、自分の魂が作る世界だ。言ってみれば、主体と客体が同一になり、区別がなくなっている。自らの魂が作った箱庭に自ら落ち着く。だから、生前に豊かな精神生活を送った人間は、死後も同じように豊かな生活を変わらず送ることができる(シュタイナーの言う所の「意識の連続性」というものか)。

 

 いいことをすれば天国に行き、悪いことをすれば地獄に行く。カルマです因果ですと語るスピリチュアルの本は多いし、シルバーバーチの霊訓なんかも読んでそんな風に言う人が多いが、ここで偉大な哲学者セネカの言葉を取り上げよう。それは、「善行の恩恵は自分が善行をしたこということであり、悪行の罰は自分がまさに悪行をしたということだ」とある。これは、人間の魂を箱庭と考えれば分かりやすい。善い行いは自分の箱庭を綺麗にして居心地よくすることだし、悪い行いは自分の箱庭にゴミを撒き散らすようなものだ。だから悪人は、悪行を行ったという時点で、既に罰を受けているのだ。別に生きている間も、悪しき行いは自分の魂の状態を悪化させるのだが、肉体に思考を鈍らされている分、それを感じ辛い。死後に魂が自由になって自分が作り上げた箱庭を直接知るようになると、自分の想いをありありと知ることになる。それが自分のやった行いの成果であったり、報いであったりする。

 

 中抜きの罰は、まさに中抜きをしたということそのものにある。まともに働いて金を稼いだから、その仕事で何らかの技術や知識や経験を得ることができるかも知れないが、中抜きをして金だけ手に入れても、それに見合う知識も経験も何も得られない。それは、箱庭に立てる家も植える植物もないのに、お金ばかり手に入れしまったようなものだ。実体が伴わないお金なので、日本の経済力を上げる種にもならない。むしら搾取された側がやる気をなくして、日本経済は衰退するだろう(もうしている)。

 

 ならば自分だけでも逃げ切ろう、せめて日本が終わる前に自分だけは金を沢山稼いで少しでも甘い汁を吸って死ぬまでの僅かの間を精一杯エンジョイしてすごそうという、沈む船の上で必死に性欲や食欲を満たそうとする心がいわゆる中抜きと呼ばれるピンハネ行為に走るのだが、それは、自分の魂という箱庭に放射性廃棄物を撒き散らすようなもので、死後に(生きてるうちからそうなのだが)末永く排除不可能な悪徳の生み出した慢性的な苦痛を、自ら準備することに他ならない。中抜きを促すものが承認欲求なのか何かはよく知らないが、この放射能のような悪徳は、承認欲求のような厄介な願望をもとに生じるのだろう。生前も死後も死海の林檎を求めてもがき苦しみ、どん底まで落ちてそこから神を求めて祈ることで彼らは救われるようになる。それが次の地球紀すなわちシュタイナーのいう所の木星紀で行われることになるのかそれとも、その未熟さゆえに更により程度の低い世界で「学び直す」ことになるかは、一人一人の生き方にかかっている。