徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

「病院名を公表します」「店名を公表します」

 

 五輪に関わった偉い人たちの会計明細と名前も公表したらどうだろう。そんな意味深いことは死んでもしない癖に、どうして次から次へと無意味なことばかりは必死にしたがるのだろう。名前を公表して何か問題が解決することってあるのだろうか。店や病院に責任を押し付けるにしても、もう少し賢いやり方があるかも知れないものを。

 

 何か問題が起きたら、どうしたら次に起こらないようにできるか。起きてしまった原因は何か。一見関係ないかも知れないけれど、第三者的な立場であった自分達にも責任はあったのではないだろうか。自分達は現場の人たちの苦労を把握していただろうか。現実的に考えられていただろうか。頭の中で勝手なイメージだけで問題を捉えていなかっただろうか…などと、優れたリーダーは考えるものである。そして、たとえ解決できなかったにしても、そんな風に真摯に問題と向き合っていれば、その姿は見てる人達の心を打って、彼等をより励ましたことだろう。

 

 最低のリーダーは問題が起きたら真っ先に保身を考え、誰か他の責任を押し付けることができる先を血眼になって探す。「名前を公表する」なんて行為はまさしくそれであり、「ほら、この病院が悪いよ。お店が悪いよ。僕は私は何も悪くないよ」と言ってみんなに慰めて欲しがっている。

 

 会社でも問題のある部下をいちいち人事にチクりに行く情けない上司がいないだろうか?掃いて捨てるほどいると思う。責任をうまく流れる術が男らしさとかかっこよさの証だと思ってる女もいるし、そんな能力に秀でた人間を持て囃すこれまた無責任な大衆も悪いのかも知らない。

 

 「名前を公表します」とかいちいちノリが小学校の終わりの会である。「今度から掃除当番をサボった人は名前を公表します」「人の悪口を言ったら名前を公表します」とか、いい年をした大人が真顔で言うのがこの国である。小学校の終わりの会と同じく、何かとりあえず強い口調で発言することに意味があると思っており、そうすれば先生みたいな頼れる(のか?)存在がどこからともなく登場して、鶴の一声を発して困った時に現れる正義のヒーローみたいに問題を解決してくれると思ってるのだろうか。

 

 自分の人生を生きてない人間は、誰かが何とかしてくれると思ってる。だから、「名前を公表します」と言って、自分の責任をなすりつける。病床を確保して欲しい訳でも、人の命を救って欲しい訳でも、もっと言うと、感染拡大が収まって欲しい訳でもない。彼等は終わりの会で、際限なく無意味な発言を垂れ流していたいだけなのである。それが彼等の拙い自己実現であり、承認欲求を満たす手段であり、人生目標なのだ。どんなポチポチゲーよりも受け身で、自分らしさも覚悟も何もない、荒廃した箱庭だ。魂がフラフラで拠り所がない。信念がなく、ブレたその場限りの思いつきの発言を繰り返す。ちょうど小学生の口喧嘩が売り言葉に買い言葉の応酬で、終わりがないかのように。