徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

円の価値が下がったのは、単純に日本人が仕事をしなかったから

  円の国際為替レートでの実力が50年前のそれと同じ水準になっているらしい。2010年と比べると、半分ほどになってるそうだ。別に驚くことではない。僕の会社だけ見ていても、おっさんは仕事をせずに若い女子社員の物色ばかりしてるし、珍しく大声を上げることがあるかと思えば、大人しいが真面目に仕事してる社員を恫喝している。社会進出した女性は仕事中にわざわざわ立ち止まって手を止めて悪口陰口噂話をし、デスクでは旦那と子供の愚痴を言いながらお菓子を頬張る。社長や役員には専門知識も経験も信念もロクにないおっさん達が居座り、社会の噂話を逐一チェックして、どの女子社員が誰と付き合ってるとか、あいつが飲み会でやらかしたとか、誰がモテるとか、そんな下らないゴシップを楽しみに毎日出社している様だ。長々と書いたが、要するに誰も仕事をしていないのである。

 

 政府や大企業を見ても、仕事の大事な所は外注で、自分達では難しいことを何もしない。むしろ、パワポ職人こそが日本における最高の地位の証であるとでも言わんばかりの仕事ぶりである。中抜きや中間搾取をすれば当然人材は育たないし、自分自身仕事に関する知識や経験が身に付かなくなる。だから小泉進次郎みたいなお花畑政治家が量産されるし、トンガの噴火で火山灰が懸念される時に都知事ソーラーパネルの設置を義務付けようとする。みんな誰も彼もが社会や職場で自分のブログに書き込むような感覚で、思いついたことを好き放題言って他人を振り回す。振り回すときにどれだけゴネられるかということが、「コミュニケーション能力」の指標である。企業は仕事ができる人間ではなく、コミュニケーション能力が高い人間を欲しがるから、まともな人材が育たない。下請け会社に対していかに効率的にヤクザまがいの恫喝ができるかが、社会人として重要になる。

 

 さて、話を外国人技能実習制度に移す。円の価値がこれだけ下がっているのに、外国人技能実習生に対する虐待や暴力がやむ様子はない。1000歩譲って、日本の国力が他国に比べてずば抜けて高いなら、許されたかも知れないが、もはや新興国くらいの経済的実力で、東南アジアの人達にみっともなくマウントを取るのはどうかと思う。20年後には立場が逆転し、日本からベトナムやタイなどに出稼ぎに行く人が量産されるかも知れない。その時に虐待や暴力に遭っても、日本人は一切文句を言えない。「日本沈没」というクソドラマで、日本人が世界中に移民するというシーンがあったが、外国人技能実習生にこれだけ横柄に振る舞っておきながら、自分達が世界で受け入れられると思うのはどうかしている。移民した先でいじめられるなどの描写があればリアリティがあったのに、何故か暖かく迎えられるという謎脚本だった。

 

 別に、円の価値が下がっても、贅沢をしなければ充分に生きていける。牛を肥え太らせてサシを入れるための濃厚飼料を、高いお金を払って外国から輸入せずとも、赤身の肉で充分にタンパク質は摂れるし、体にもいい。一皿で何千円もする料理の値段を当てるという下品なテレビ番組があるが、何千円もあればたとえコンビニで買っても、腹一杯美味しい食べ物が沢山食べられる。贅沢は自然に背いた。これはセネカの言葉だ。また、勤勉であるならその反動としてのある種の贅沢が許されたかも知れない。が、今の日本人は全く勤勉でないのにあまりに贅沢だ。僕の職場ではよく、仕事もしない低学歴のおばさんが、高級グルメや海外旅行の話をしている。フォアグラがどうとか、ドイツがどうとか楽しそうだ。だが、そういった楽しみというのは、仕事や勉強を一生懸命やったり、他人のために何かを頑張ってやった後に、ほんの少しの自分へのご褒美として許されるようなものだ。金云々は置いておいても。そんなものを、何の苦労もなく求める人間が、そこら中に溢れている。全く仕事をしないのに、自分が聖人のような扱いをされないとヒステリーを起こす教師や上司が溢れている。神に祈ることもないのに、自分が神のように崇められることがないと、赤子のように泣き喚く大人で溢れかえるようになった。

 

 それでも、一度贅沢の味を覚えたら、人はそう簡単に前の状態に戻ることはできない。そうして引き返せないところまでいくのも、そうした傲慢に対する一つの罰として、神は配慮して下さってるのだ。