徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

パワハラを見て見ぬフリする管理職の好きな言葉は「ケジメ」

 

 「ケジメ」という言葉が好きな管理職がいた。つい最近、その管理職の人の担当部署でパワハラが起きて、退職者が出た。管理職のそのオッサンは見て見ぬフリを決め込み、加害者は何のお咎めもなし。退職したのはパワハラ被害を受けた側の女性だったが、知識も経験もあり気が利いて優しく、辞めたことが非常に惜しまれる人だった。この管理職からは僕は以前パワハラを受けていたが、その時にやたらと「ケジメ」という言葉を多用している人物だった。パワハラの一環で僕は別の部署に飛ばされたが、100歩譲ってその「ケジメ」なるものが僕に欠けていたから僕がパワハラに遭ったのだろうかと思う日もあったが、その女性が退職したと聞いて、成る程大した「ケジメ」だと思ったものだ。弱い物いじめをする時に勇ましくネチネチ詰めたり、優しく優秀な女性に対するパワハラを見て見ぬフリをすることが「ケジメ」らしい。大変男らしい管理職で、尊敬に値する。

 

 この管理職も無能の例にもれず、パワーポイントを使った資料作成が大好きだった。同じ部署内での打ち合わせのために丹念にパワーポイントの資料を作成し、無駄などうでもいいことを長々とまくし立てる。「ケジメ」のある男らしい態度にふさわしい、毅然としたプレゼンである。

 

 他にもパワーポイント好きのおっさん達は共通して「それらしい」美辞麗句を好んで使いたがる。「コンプライアンス」「迅速に」「徹底して」とか何とか…コロナ対策にも「徹底して」という言葉をやたら使いたがる政治家が沢山いたが、具体的に何をどうしろと言ってる るのかさっぱり分からない。消毒を徹底しろとか、マスクを徹底しろとかなんとかかっこつけて言うが、普通に「何回消毒して下さい」とか「常にマスクをつけて下さい」でいいんじゃないだろうか。「徹底して」とかいう言葉を発することで、何か仕事したようなかっこよくなったような気分になっているのだろうか。当たり前だが、指示に「テッテイシテ」と接頭語をつけたところで会社の売り上げは伸びないし、部下のモチベーションも上がらない。むしろ言わなくてもいいどうでもいいことを言っていることで部下からはウザがられ、信頼を失うだろう。徹底して下らないパワーポイントを使ったプレゼンを行う一貫性のない連中が、他人には「徹底」を要求するのだから片腹痛い。パワハラを見て見ぬフリをするパワハラの加害者が「ケジメ」を語るのと同じくらい滑稽である。バッハ会長がスピーチの中でやたらと「連帯」を強調したのと同じである。冗長でどうでもいい演説をする人間というのは、同じようにどうでもいい言葉を好む。次はなんだろう。「絆」だろうか。「東京アラート」だろうか。「勝負の3週間」だろうか。中身のない言葉でも、言ってる本人達は気分がよくなるものらしい。ごちゃごちゃして見にくいパワーポイントのスライドでも、発言者は嬉しそうに話しているのと同じようなものだ。日本国民や世界の人や五輪の選手をあれだけ侮辱しながら「連帯」を語ったバッハ会長と同じように、あらゆるハラスメント行為を自ら行い他人のそれも見て見ぬフリをした「ケジメ」が大好きな管理職も、自分に酔っているのだろう。他の人だが会社のパワハラ好きの人間は、「結果が全て」と言っていた。何も結果を出してないおっさんだが、他人にパワハラをする時はやたらこうした勇ましい言葉を使いたがる。小泉進次郎レジ袋無能大臣も、「間違いなく社会改革は起きた」という勇ましい言葉を発していた。あんなに頭の悪い人間でも大臣として沢山の給料を貰って好きなように振る舞えるということを証明したという意味では、確かに社会改革は起きたと言えよう。

 

「ケジメ」「絆」「連帯」「社会改革」「東京アラート」「勝負の3週間」

 

 どれも、基本的に僕が使うことはないし、僕が読む本の中にもまず出てこないような言葉である。一昔前のお仕事ドラマとかには出てくるかも知れないが、お仕事ドラマが語彙力の源泉である人間が政治家や上司になるのは、世も末だろう。まあ現実にそうなっているのだから、文句を言っても仕方ないが。これらの「それっぽいが中身のまるでない美辞麗句」を多用したがる人がいたら要注意である。その人は普段頭を何も使ってないし、発言に一切の一貫性がない無責任な人間である。中身のない言葉を使えば、責任を問われずに済むからね。それでいて、何か立派なことを言ったような気分には浸れるから一石二鳥である。上司や先輩を選べるなら、関わる人間は「自分の言葉で話す」人に限る。自分の言葉で話す人は、自分で自分に責任を持っているからそうできるのである。借りてきたような言葉で話す人は、あらゆる責任も借りてきたもののように平気で手放す。話し方に、生き方が現れている。上記のような単語を好んで使う人は、自分の人生を生きていない。死んでいるのと同じである。死んでいるから、死んだ言葉しか話せない。「絆」とか「連帯」とか「ケジメ」なんて言葉は、よほど注意深く用いない限りは死んだ言葉なのである。それを平気で多用できるような人間は、同じく死んだ人間で、欲に抗えないゾンビなのである。