徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

悩みはブログに書くことで消える

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 ブログとはかくも偉大なもので、これが日記であっても多少なりともその効果はあるのだが、ブログは他人に公開する分、文章の構成や表現に対して多少なりとも頭を使うから、日記ほど散文的にもならず、かといって日常生活における他人のやりとりほど面倒なことにもならず、ほどよい塩梅で自分の思考や感情を整理することができ、自己と世界の結び付きをある時は緩めたり、ある時は締め付けたりして適度なバランスを保つことができる。

 

 嫌なことがある時は、それを整理して文章にするだけで相当に気分が楽になる。しかし、それが日記や自分だけのメモ帳だと、なぜ自分がこんな面倒な手間を踏まなければならないのだと憤慨することもあるし、かえって塞ぎ込んで気分が悪化してしまうこともままある。しかしブログであると、ある程度は他者の目線が入る分、或いは広告などで収入に繋がる可能性がある分、いくらか建設的で世界に対して攻撃的になることが出来る。世間に対するささやかな復讐にもなるし、悪事を働いた人間をいかに描写し考察し、彼の悪徳を文章に刻み付け残すかという仕事だと考えると、なんだか楽しくもなってくる。哲学者セネカも、こんな風にしてストレスと向き合っていたのかも知れない。彼の時代の欲にまみれた愚かな人物の記録が、彼の著作には克明に刻まれている。仮に当時栄えて豊かな富に溺れて生きることが叶ったとしても、2000年もその悪徳が記録されるなら本人は堪ったものではないだろう。しかし、セネカの著作は今後2000年はゆうに読み継がれていくものだろうから、もしからしたら1万年先まで語り継がれていくかも知れない。かわいそうなことだ。

 

 つまりそれだけ、利己主義や貪欲、残忍や無慈悲さという悪徳は高くつくということだ。例え本人が忘れようとそれは必ず誰かの心か文章か或いは、アカシャ年代記に刻まれ、しかるべき時期にしかるべき人達の衆目に晒されることになる。人がブログに悩みを書く時は、大抵は愚かな人間の観察日記に終始する。それは記憶から記録となり、何らかの形で他者の目に触れたり、運が良くば役に立ち、世界から悪徳を駆逐するのに一歩貢献するのである。だから、悩みをブログに書くとスッキリするし、不思議なことに、現実でも悩みそのものが消えていたりする。電車の中で足を組んで前にだらしなく突き出していた人が足を蹴られたり、或いは何もなくても急に恥ずかしくなったのか引っ込めたり、嫌いだった上司はいつの間にか左遷されていたり退職していたりする。これは、引き寄せの法則とか量子力学とか何とか言われるアレかも知れないが、原理を推測するなら、仮に僕の悩みのタネが僕に対して攻撃的な人だと仮定すると、僕がブログに書くことで、僕自身の中では思考と感情が整理されるから、攻撃する側のエネルギーが空回りして、自分の所に返ってくるのが早くなるのではないかと思う。彼等は承認欲求故にしょーもないことをして他人の思考や感情を乱し、自分に注意をひこうとするが、僕がこうしてブログを書いて自分の思考と感情に意識を集中して乱さないで、或いは乱れても修正していると、彼等の「攻撃」は功を奏さなかったということになる。バトル漫画でいうところの「無効化」「キャンセル」「中和」「バリアー」あたりの技といった所だろうか。しかしどれもMPを大量に消費しそうだから、やはり賢者に近い人間でないと、このストレス解消法を使うのは難しいのかも知れない。ポケモンでも「まもる」は、敵の攻撃を全て無効化するが、使用したターン自分は攻撃できないし、連続で使うと失敗するという使い所の難しい技だ。ブログも毎日連続で書くのは難しいし、似たような内容のものを何度も投稿すると安っぽくて陳腐になる。

 

 まあとにかく、理性的な人間であれば、悩みがある時は日記やブログに書くのが一番ストレス解消にはいいと思う。無料ブログであっても開設だとか登録だとかログインだとかが一々面倒くさいが、悪徳に塗れた人間というのはもっと面倒臭いから多少は我慢すべきであろう。ちょっとの手間を乗り越えたその先には、重箱の隅を突くような上司や、電車内でいちいち人のスマホを覗き込んでくるような位置に立つ気持ち悪いおっさんとは無縁の、自由なキャンバスがある。そこに、描きたいものを描けばいい。