徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

開会式の作曲家の過去のいじめについて

 見ていて思うのは、そこまでして開会式の曲を発表したいのかということだ。確かにそれは開会式の中継を通して、世界中の人にリアルタイムで聴いて貰えるが、それは同時に、過去の自分がやった障害者の人へのひどいいじめが、世界中に拡散されることをも意味するし、実際、既に海外のメディアでも過去に障害者の人にひどいいじめを行った者が平和の祭典の開会式の曲を担当するとして、続けざまに取り上げられている。手早く身を引いていればそんなことは晒されずに、心穏やかでいられたかも知れないのに、だ。大体、北京、ロンドン、リオデジャネイロのオリンピックの開会式の音楽なんて覚えてる人はいるのだろうか。世界中の人は、彼の曲は忘れても、彼が過去にしたいじめを数十年先まで覚えているだろうし、今後オリンピックが開催される度に、今回の作曲家の素性はどうだと引き合いに出されることになるだろう。目先の利益と引き換えに、大きな恥を得た形になる。

 

 さて、そもそもの問題は何なのだろう?しつこく書くがこれも承認欲求の問題である。五輪関係者があれだけ醜いのは、承認欲求があまりに強いからなのである。この作曲者は、五輪の開会式なんか開催できなくても、街角でハーモニカを吹いていれば幸せ、というようなタイプでなかったのだろう。五輪に拘るあたりが、さほど音楽にも興味はないのではないかと思う。実際、政治家でも、庶民の生活に興味のない人が経済再生大臣をやってるし、環境や動物のことなんてテレビくらいでしか学んでないだろう人が環境大臣なんてやっている。それでいて、さまざまな素晴らしいポエムをノリノリで披露して、恐らく自分を人格者と信じて疑っていない。この作曲家にしても、知り合いに「高い倫理観を持っている」なんて言わせているあたり、相当に承認欲求が強かったのだろう。そもそも、こんな評判のある人間が胡散臭くないはずがない。会社でパワハラをするのは一見すると仕事熱心な「いい人」だし、麻原彰晃は海外の聖者から高い評価を得ていたし、インドの聖者に俗物じゃない奴はいない。だから、「高い倫理観を持つ」という評判など、異常者の証でしかない(一般論として)。もっとも、本当に音楽が好きなら、異常者と言われようがクズと言われようが、人知れず作曲活動に勤しむことも、ボカロPとして初めての音に尽くすことも、街の小さな楽団で演奏することも、鍵盤ハーモニカでクラシックの名曲を奏でることも幾らでも許されている。僕だって作曲なんかしかことないが、ボカロPになりたいと常々思っているのだ。音楽が好きで作曲をしたい限り、人は何でも許されている。ただし、それが五輪の開会式の曲である「必要はない」のだ。許されないとは別に思わないが、世界中に恥を晒してまで発表したいのかとは思う。このタイミングでも自分から辞退すれば、その誠意も世界中に広まるだろうが、固執するならば、音楽ではなく「五輪への」醜い執着心が世界中に晒されることになるだろう。誰も覚えることもない開会式を彩る束の間のBGMとともに。

 

 別にアーティストが聖人である必要はないし、どんな偉人にだって卑劣な過去は数えきれないほどあるだろう。イエスだって神殿で商売をしていただけの人達に鞭を持ってヒステリックにキレたし、仏陀だって妻と幼い子を捨てて自分探しの旅に出たのである。しかしこれらの偉人達は少なくとも、大勢の人を敵に回しても、権力に楯突いても、どれほどの攻め苦を味わっても、富や名誉を失っても、自分の信念は曲げなかった。五輪という「利権」「権力」の庇護のもとにぬくぬくと過ごそうという芸術家にあるまじき態度とは真逆の、男らしい見上げた精神である。

 

 承認欲求はかくも人を惨めで、どうしようもない存在にする。ジャングルジムのてっぺんに登った子供がママーみてみてーというのと同じ要領で、いちいち人の気を引くために、どうでもいいつまらないこと、ひどい場合には卑劣なことを平気でするのだ。いじめを行うものもそうだ。彼等には、気を引きたい相手がいて、そのために無関係の自分に逆らえなさそうな人に八つ当たりのように卑劣なことをする。その卑劣な行為を、ジャングルジムのてっぺんに登るような無邪気な行為だと、ひどい場合には勇敢な行為だと本気で思ってる人というのはこの世界には(日本に限らない)沢山いるし、いじめを何か立派さや男らしさの証と考える風潮は一定以上確実に存在している。問題は、そういった行為が世間に晒されたり過去が掘り返されたりした時に、男らしく自分がした行為を認め、公共の行事に携わることが相応しいのかどうか、自分で決断を下すべきなのだ。そこで女々しく言い訳をしたり、自分は今では立派で倫理観があるとか嘯くのは、本当にみっともない。しかし、承認欲求という麻薬に毒された心は、倫理という普通の人にとっては良薬となるものまで、毒に変えてしまうのである。「高い倫理観」という言葉の意味は、この件によっていっそう汚れた意味合いになってしまった。

 

 巨大な便器を大金を使い込んで必死に建設するのも、中抜きに中抜きを重ねて、必要もない金を国民から無心するのも、コロナの感染者を関係者の中に何人も出してまで開催に執着するのも、全ては行き過ぎた承認欲求のなせる業である。しかし、彼等大人の体を持った子供が登っているジャングルジムは過度に踏みつけられて傷み、鯖がつき、今にも崩れ落ちんばかりだ。願わくば、そのジャングルジムの崩壊に、近くに座ってるだけの無辜の子供が、巻き込まれて死ぬことのないように。