徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

フェミニストは優しい童話や小説を書いたらどうだろう。知性も教養もないから無理か

 絵本「ピーターラビット」の原作者の女性が生きてたビクトリア朝時代、イギリスでは女性は参政権もなく、社会的にひどく抑圧され差別されていたようだ。しかし、その抑圧があったからこそ世界中に広がる文学作品が生まれたと考えるなら、差別もまんざら捨てたもんじゃないだろう。勇者が強い敵や困難な冒険を追い求めるように、女性も何か高潔さを自認するなら、差別や抑圧といった困難にぐちぐち文句を言うべきではなく、勇敢にそれに立ち向かい、その困難から得られる体験を創造的なのものに向けるべきなのである。それは男女問わず人間が生きる上での義務のようなもので、苦しまずに意味のあることを成し遂げる人など世界上どこを探してもいない。もし現代のブスやフェミニストが(フェミニストはもれなくブスでババアだからこの表現はおかしいのだが、最大限譲歩してこう書くことにする)「ピーターラビット」が書かれた時代に生まれても、抑圧や差別に対して愚痴や文句を言うばかりで、この原作者のように意義のあることは何一つなし得なかっただろう。それどころか、このように一見差別に異を唱えるような人ほど現実には差別的で権力に弱く、強い男性がいたら喜んでちんぽをしゃぶっていただろうと思う。フェミニストは雑誌の表紙が水着のグラビアアイドルであることに文句は言っても、公園のホームレスを排除することには何一つ疑問を持たないどころか、素晴らしいことだと思っているようなので。

 

 そもそも文句があるならブログで書くなり絵本作家や小説家になるなり、漫画家になるなりして自分の気持ちを分かりやすく表現すればいいのに、何でツイッターという140字しか文字が書けない猿専用の不自由なツールを使って意味不明な寝言を喚くのだろうか?それと彼女らはツイッター上では「女」を名乗るが、現実の彼女らは「女」と呼ぶのも憚られるような容姿と年齢をしていることは容易に想像がつく。ツイッター上では顔が見えない分、読み手が勝手に自分の容姿を上方修正するであろうことをいいことに、「女」を名乗って女性差別がーだの家事がー育児がーだの喚くのである。専業主婦を自分達女のコミュニティのカースト最上位に自分達で置いてる癖に、何で家事や育児を押し付けられてるとブスな顔で被害者面して喚くのだろう。社会進出した所で人の悪口陰口噂話と愚痴とお菓子パーティーとズレた仕事と会議で何の役にも立たない発言しかできない無能が、どうして自分達の役割を示せる絶好の機会である家事や育児に誇りを持って取り組めないのだろう。丁寧にやれば自分にも社会にもとても貢献できる絶好の機会なのに、彼女らは自らその機会をかなぐり捨て、愚痴を垂らすだけ垂らすことが何か立派な社会活動だと本気で思い込んでいる。

 

 別にもちろん、家事や育児だけが女性の生きる道ではないし、「ピーターラビット」の原作者のように素晴らしい文学作品を残して世界中の子供達に夢を見せることで、あらゆる魂に貢献するような生き方もあるし、実際、そうあるべきだと思う。結婚や育児は沢山ある生き方の一つに過ぎないし、その中にどうしても女性としての幸せを見出せない人もいるだろう。

 

 しかし、家事を分担しろという女性は空いた時間で何をするのだろう?素晴らしい精神活動に費やすのならともかく、女性が社会進出して増えたのは日本のGDPではなく不倫の数だし、僕の職場でも愚痴と文句ばかりは人一倍多い低学歴でおまけにブスな女性というのは履いて捨てるほど溢れている。そんな人達がかつてのイギリスに生まれたらどんな生き方をしていたのだろう。やはり同じように愚痴や文句を垂れて、社会に無用の存在として処分されただろうか。それとも、自分に出来ることを必死で探して、世界に名を残す絵本作家になっただろうか。後者は多分、ありえない。だってこれだけ表現の手段が多様化して自分の思想をいくらでも洗練させられる現代にあっても、ツイッターという猿のツールでヒステリックに喚くことしか出来ない連中なのだから。140文字のヒステリーが、子供に夢を与えた例が世界史上一度でもあっただろうか。フェミニストは、自分達が望むまでもなく、子供から夢を奪うという形で、女として、否人としての幸せを、自分で自分から奪い取っているのである。