徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

1兆6000億円は養鶏業者にあげるべきだった

 

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 東京オリンピックパラリンピックにこれまでかかった費用が、1兆6000億円くらいらしい。巨大な便器の建設と後はほとんど中抜きに次ぐ中抜きに使い込まれたそうだ。中抜きしてお金を得た人は何に使うのだろう?車を買い替えたり、家のローンを一気に返済したり、愛人を囲ったりするのだろうか?そんな程度のことのために、必死の形相で中抜きに勤しむような人生もなかなか哀れなものだが、彼等にとっては何か幸福で立派なことなのだろう。

 

 で、タイトルの養鶏業者とは何のことかというと、最近小泉環境大臣が鶏のケージ飼育を禁止しようだなどと画策しているらしい。お花畑の嫁に何を吹き込まれたのか知らないが、ロクに動物の世話をしたことも自分の手で食べる動物を殺したこともないような人間が、動物福祉について語るとは何とも片腹いたい。経験がないならないなりに、何か凄く勉強を頑張ったとかこれから養鶏業者に弟子入りして鶏の飼育について勉強するとかならまだ理解できないでもないのだが、そんなことはこれまでもなかったし、これからもないだろう。彼は関東学院大学という大変優れた大学を卒業しているため、きっと鶏の生態なんかにも専門家のように詳しいのだろう。

 

 とまあ冗談はさておき、このお花畑のバカ大臣は鶏のケージ飼育が虐待だの何だのと批判しているらしいが、それなら沢山のお金を国が養鶏業者に寄付して、そのお金で養鶏業者の人達に、平飼いやエンリッチドケージの設備投資に使って貰えば全て解決すると思うのだがどうだろう?オリンピックなんか招待しないで、1兆6000億円全てを養鶏業者に寄付することが出来れば、素晴らしく広い飼育スペースが、素晴らしい環境が、素晴らしい動物福祉が実現できただろうに、残念ながらそのお金は全て、便器と中抜きに使われて、鶏の苦痛を軽減するためには一銭も使われることがなかった。

 

 東京オリンピックの招致を最初に提言したのは石原都知事とかいうこれまた承認欲求の強いゴミで、東京都民はこんなゴミを当選させたことに責任を感じて欲しい。とはいえ、こんなゴミを当選させて、東京オリンピックの開催が決まった時に浮かれていた人達は全て、「私は動物の苦しみなんかより運動会の方が大切です。だからなけなしのお金があればそれは全て運動会のために使うべきです。私たちのお祭り騒ぎと思い出作りのための便器の制作と中抜きの快感に比べたら、鶏がどんな環境で飼われているかなんてクソどうでもいい些細なことです。知ったこっちゃありません。でも私は動物大好きで志村動物園を欠かさず見ています」

 

 と、言っているのと同じであることを理解すべきなのである。また、別に鶏でなくても、自粛している飲食店にそのまま給付金として与えても良かったかも知れない。東京オリンピックがなければ、それが可能であった。いくらでも有意義で人を助けるために使えたはずのお金が、便器と中抜きのために消えていった。そして国はそんな無駄遣いをしておきながら更に、養鶏業者に負担と圧力をかけて、自分たちの薄っぺらい動物愛護精神と承認欲求を満たそうとしている。動物を「かわいそう」と無責任に簡単に言える奴は、承認欲求の塊なのである。彼等彼女らは、自分の言葉で他者に負担と労苦を強いることができるというその事実に酔いしれるために、動物愛護家の仮面を被るのであり、本当の所は、鶏のことも、養鶏農家の人のことも、環境のことも何もかも、どうでもいい他人事だと思っているのである。

 

 他人事だから、思いつきで政策を話、他人事だから、方針がコロコロ変わるし、他人事だから、他者にいくらでも負担をかけてくる。ちょうど、コロナ対策を他人事だと思って、適当な思いつきで金融機関に飲食店への融資をやめさせようとした西村大臣のように。他人事だから、信念も何もない。だから、簡単に撤回するし、自分は言ってないなどと平気で恥知らずなことを宣う。そして、「もうレジ袋やスプーンが出てくることはない」と、自分が命令したにも関わらず、まるで勝手にそうなったかのような言い方で、全てを他者に押し付けるのだ。

 

 こうして彼等のような薄っぺらい動物好きは責任を全て他人に丸投げしながら、承認欲求を満たそうとするのだ。ちょうど、金もないのに野良猫を動物病院に連れて行って、治療費を請求されたら逆ギレするバカのように。

 

 彼等は承認欲求のためならどんな残忍な要求も国民に押し付けるが、どんなちっぽけな理性さえも政策のために使用しようとはしない。彼等は承認欲求という悪魔に仕え、便器の作製と中抜きに莫大な金を使う一方で、鶏の飼育環境のためには一銭も金を使わない癖に、素晴らしく清廉な心を持った動物愛護家であるように自分を他人に見せ、また実際に自分でもそう思っているのである。

 

 小泉環境大臣滝川クリステルは、動物愛護に必要なのは口ではなく手足を動かすことであると学ぶ必要がある。そして、動物を殺す覚悟のない人間は、やはり動物と正しく接することができないことを知らねばならない。お花畑の理想を持つのは勝手だが、それはピロートークの中で完結させて、現実世界に持ち込むべきではないだろう。