徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

人の欲を煽るスピリチュアルの偉い人は例外なくゴミである

 「あなたの中に眠る潜在能力を活用して」「感謝の気持ちを持って」「お金は有り余るほど出てくる」「神様を味方につける」「あの世が教えてくれたこと」「量子力学が明かすあの世の法則」「感謝すれば癌は消える」「人生を思い通りにする魔法の『ありがとう』生活」だの何だの…シュタイナーの本を探しに書店に赴くと、上記のような吐き気を催すタイトルの本が近くのスピリチュアル・精神世界の棚に並べられており、とても精神衛生に悪い。

 

 どこかの偉い有名大学の医者だの何とかの研究の権威の学者だのが晩年になって名誉欲に駆られて、いくつもスピリチュアルの本を出版してるのを見ると心底気持ちが悪くなる。有名な医者だろうが物理学の権威だろうが、名誉を追求してる時点で俗物なのである。ひどいのになると、単なる自分の成功体験をさも自分は立派だから成功したとでもいうように、お金を引き寄せる法則だの社会で成功する法則だの、異性を思い通りにする方法だの何だのを、歯の浮くような美辞麗句を交えてたっぷりの自慢と共に分厚い癖に中身はスカスカの本にたっぷりと書き記す。

 

 ストア学派からすれば、彼等も彼等の本を買う人間も、例外なく惨めで哀れな存在である。何故かというと、幸福を自分自身ではなく、あくまで富や成功や名誉といった、自分の外にあるものに依存しているからだ。

 

 あるスピリチュアルの研究で有名な人は、いくつもの発明をして巨万の富を築いた人だそうだ。だが、それがどうしたというのだろう?あるスピリチュアルの大家は女性にモテモテで、何人も子供がいたらしい。それがどうした。あるスピリチュアルで有名な芸能人は沢山の本を書いて有名になってとても幸せそうだ。だがそれがどうしたというのだろう?どうも日本人は、霊性の高さと快楽の価値を同一視する傾向にあるようだ。エピクロスの系譜なのかも知れないが、日本にロクな思想家が生まれないのも、この金か名誉か下半身かでしか人の価値を測れない哀れな国民性に由来するのかも知れない。

 

 ストア学派にとってはあろうがなかろうがどうでもいいものを、日本の偉いスピリチュアルの思想家の方々はとても重視する。その語る所を聞いてみるとなるほど快楽に毒されてるだけあって語る理論は幼稚なただの自慢話で、本屋で立ち読みするのも時間の無駄だと思わせるようなものばかりである。

 

「感謝すれば成功します」

 

  感謝しても成功しません。当たり前のことである。成功した自分は感謝の心を持っている素晴らしい人格者で物事の本質を見抜く目がある賢い聖人だとでもいいたいのだろうか?偶然の産物に有頂天になって舞い上がってる時点で既に三流である。何故って彼は、富や名誉や成功と言った他人に見せびらかして立派さの証とできる(と本人が思ってる)所有物がなければ、自分で自分の思想を誇ることなどできないのだから。ストア学派ならば、こう言うだろう。

 

「私は感謝する。何故なら自分がそうしたいと思うから」

 

 真の哲学者は自分が自分の幸福の証人になる。そこに他人に自慢するような成功や富や見せつけるためのパートナーなど必要としない。語る口があれば、文章を書く場があれば、いや例えそれらが無くても、彼は自らの幸福を示すことができるだろう。彼は偶然の産物を誇るような愚かでみっともない真似はしない。そんな失われやすく、維持するためには更なる幸運と時によっては(実際は殆どの場合だが)卑劣な詐欺まがいの手段を必要とするようなタイプの幸福に、自分の人格を委ねるような真似はしない。彼の人格は彼自身によって修養され証明され、彼自身が彼の語る言葉の由来なのである。自分の所有物や金や成功体験を担保に人に自説をさも立派なものであるかのように言い聞かせる恥知らずどもとは格が違うのである。

 

 セネカやシュタイナーこそ、真のスピリチュアルの世界での賢者であり、読むに値する本を記す人物である。(彼等のような日本人の思想家がいないことは極めて恥ずべきことだ。)彼等は言葉一つで勝負し、人に真実を伝えるに当たって自分の地位や成功をその権威付けに使うような真似は一切せずに、ただ純粋に真理のみを語るのである。何故なら、彼等が伝えようとするのは世界についての、宇宙についての、霊界についての、人間についての、魂についての真理そのものであり、彼等の所有物などではないからだ。そこには幾何学の問題の証明のように簡潔で美しい理論が展開され、その主張を押し付けるようなこともなく、我々のような後進が世界を理解するのに必要なものを、惜しみなく、一切の押し付けがましさなく、我々に与えて、生きやすくしてくれる。彼等は我々の欲を煽るのではなく、欲を抑える術を教えてくれる。そういった優れた思想家達の本をこそ我々は真に読むべきで、なんたら大学の教授だのいくつ特許を取っただの何人奥さんがいたのだとかいう、そんな下らなく下品で無用の長物のプロフィールを長々と書かなければいけない連中の著作ではない。そんな人達の本は読む価値がない。本の内容よりも、著者のプロフィールに注目させるような本はその時点で内容は無価値で中身がありませんと自分で言ってるようなものなのだ。だから、大半のスピリチュアル本はクソなのである。それはもう、内容以前の問題だ。(無論買うほうにも問題がある。)

 

 それに、そういった人達の書く内容というのは、常に恐れに満ちている。「感謝しなければ幸せになれない」だの「この世は自分自身の心の映し鏡」だのなんだの、一々「〜しなければならない」「〜じゃないとダメだ」だのと、余計な欲望を持つが故に彼等はいつもビクビクしてロクな知性も文章センスもない癖に理屈っぽく、単なる読み物としてもつまらない紙の資源の無駄遣いにしかならないような本を量産して地球の環境を破壊しているのである。

 

 あらゆる成功は、ストア哲学の前に無力でる。真のストア学派は、富があるときもないときも同じように軽蔑するのだ。仮に金持ちになっても浮かれたりしないし、貧乏になったとしても自分を卑下したりしない。シュタイナーも「自由の哲学」の中で、「いかなる場合も自分自身に従うことのできる人を、真に自由な人と呼ぶのである」と言っている。どこかの大学の教授を始めとする日本の偉い思想家の方々に、これができている人がいるだろうか?彼等は自分勝手な妄想を垂れ流してはいても、自分自身に従うことはない。何故なら結局の所彼等を突き動かしてるの見栄や名誉欲であり、他人に振り回されてフラフラした思想家に、確固とした真理など述べることができる筈がないからである。

 

 あらゆるスピリチュアルの教えは、ストア哲学に遥かに劣る。唯一、シルバーバーチやモーゼス、ホワイトイーグルの霊訓など、厳しさをふんだんに含む優れた本くらいが、読むに値するだろう。日本人のスピはダメダメのダメのダメである。毛ほども読む価値がないので、もし持ってたら今すぐ雑誌の日に燃えるゴミに出そう。