徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察

コロナで騒ぐのは、所詮は「他人事」だと思っているから

 別に医療従事者を悪く言うつもりはない。ただ、彼等が老い先の短い老人達の寿命が1年や2年縮みそうなのを、必死になって引き伸ばすことに、どれほどの価値があるというのだろうか。別に1年寿命が伸びたからと言って、老人はその分立派になる訳でも、生前の悪行を悔い改めるようになる訳でもないのだ。

 

 コロナに対応する政治家の態度を見てて思うことはないだろうか?みっともなく騒ぎ立て、動揺し、どうでもいいことをまくし立てる。彼等は所詮、他人事だと思っているから、あそこまでで出鱈目で、思いつきで、行き当たりばったりで、一貫性のないことを言えるのである。「勝負の3週間」とか何とか無責任なことを言って喜んでるのは、コロナの問題も経済の問題も、所詮は他人事だと思っているからである。他人事だから、退屈しのぎに何か自分に酔いしれることができるような用語やキャッチフレーズを考えて、それを大勢の前でキャッキャと披露することを生きがいのように思っている。自分のことのように真剣に考えていれば、少なくとも会見中にニヤニヤするようなことはしない。

 

 コロナに限らず、職場でも、その場の思いつきで適当な指示を押しつけたり、どうでもいい仕事を部下に命じる人がいるが、そんな上司も、仕事を他人事だと思っている。他人事だから、適当な思いつきを平気で言うし、自分の発言ですら他人事だと思ってるから、自分が言ったことを3歩で忘れるのだ。他人が言ったことを、いちいち覚えてる義理はないとでもいうように。彼等は忘れっぽいことを男らしさの象徴と考えているから、「そんなこと俺・私は言ってない」と言い、それを他者に指摘されて逆ギレするまでが彼等の「男らしさ」を示すルーティーンになる。女々しく言い訳することにかけては、世界一立派な上司なのだが。

 

 また、関係ないと思われるかも知れないが、駅のホームで歩きスマホをしてる人間や、駅のホームや階段でポケットに手を入れながら歩いてる人も、あらゆることを他人事だと思っている。歩きスマホで危ない目に遭っても、周りの人が何とかしてくれる。誰かが何とかしてくれる。自分が危ない目に遭うかどうかは、自分の責任ではなく、他人の責任だ。ましてや、自分のせいで誰かに迷惑をかけるのは、自分の責任ではなく、他人の責任なのであると、彼等は文章にするのもおぞましくなるような下劣な思想を持ち、自分の人生を他人事のように考えるのを、何か立派さの証だと考えている。そして、不思議なことに…よくよく考えれば当たり前ではあるのだが…歩きスマホをしたりポケットに手を入れて歩くような人間ほど、異様なまでに強い自己顕示欲や性欲を持つ。自分のことを他人事だと思っている割には、やたらと他人に承認を要求するのである。

 

 なぜこんな人間ばかりになってしまったのかと言うと、やはり暗記教育の弊害が一つにはある。子供は…中高生や大学生も含めて…自然に学ばなければならない。自然を観察して、それをベースに思考や感性を組み立てる機会を持つ必要がある。宇宙、太陽、月、星、青空、大地、川、海、雲、雨etc…。それらを観察し、あるいは機会を持つのが難しければ、経験から可能な範囲でイメージし、自然の背後に隠された諸力を、思考の力で認識していかなれば、賢さというのは得られないように世界は作られているのだ。自然の見事な働きを知っていき、それを自分の中で思考でも感情でも再現していくと、自分の一貫性のない不埒な思考や、落ち着きのない欲望がいかに恥ずべきものかが分かり、とてもそんなものを抱いてはいられなくなるのである。

 

 偉大なる哲学者のセネカの著作に、「自然論集」がある。彼は、2000何も前に、虹ができる原理や、あらゆる気象現象、天の事象について、かなり正確な洞察を行なっていた。例えば、虹は太陽の反対側に存在すること。ハローの延長であること。全体としては輪の形をしていること。水滴が鏡のような役割をしていることなどを、思考と観察の力で既に知っていたのである。現代人なら、教科者で文章で読んだ程度にしか知らないことを、複雑な計算式も偉そうな教師も必要とせずに、自然を観察してあっさりと成し遂げたのだ。

 

 それに引き換え、現代人の暗記教育はというと、自然を観察することがまるで愚かさの証とでもいうかのように、抽象的な用語や式を暗記させ、公式の定義すら満足に説明できない教師が、性欲に毒されて自然の美しさなど何も分からなくなってしまった教師が、その薄汚れた口から出る吐瀉物のような授業を聞かせるといった、なかなかの拷問である。そのくせ単純素朴な思考力や想像力は養われない。結果、プラスチックの廃棄を減らすためにレジ袋を廃止させたり、通勤する人の数を減らすため通勤電車の数を減らすと言った、小学生でもなかなか思いつかないような素晴らしい発想力を持つ人間が育ち、そんな人間が政治家になるのである。彼等は自然を観察し、自然を学ぶことを知らない。彼等が観察するのは人気や権力の趨勢であり、学ぶことは他者を誤魔化し、正義を誤魔化す術でである。それらも最低限の道徳心や信念に基づいて行われるならまだしも、それすら持たないのだから、もはや人間というよりは食事と排泄と繁殖を何よりの生の目的とする動物に近い。

 

 自分のことを他人事のように考える人間は、理性を失い、実際に自分自身でなくなり、けだもののようになっていくだろうし、実際多くの人がそうである。彼等は事物を自分のこととして自分の自然な感性と思考力を使って捉えることができず、常に誤った認識と判断を繰り返し、その悪徳を弊害をばら撒き、世界の美しいものを傷つける、放射能のような存在なのである。