徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

セネカが語る、賢者を目指す者の誓い

セネカ「幸福な生について(岩波文庫)」20章3-5節

 

 

 自分は、死に直面した時も、死の話を聞くときと変わらぬ(平静な)顔で死を見つめよう。

 

 自分は苦難を、それがどれほど大きなものであろうと、精神で肉体を支えつつ受け入れよう。

 

 自分は富を、それがあるときもないときも同じように軽蔑し、他人のもとにあっても悲しまず、自分のもとで輝いていても得意にはなるまい。

 

 自分は幸運が訪れようと去ろうと意識するまい。

 

 すべての土地はあたかも自分のものであるかのごとくみなし、自分の土地はあたかもすべての人のものであるかのごとくみなそう。

 

 自分がこの世に生を受けたのは他者のためであることを弁え、そのことで自然に感謝するような生を送ろう。自然が自分のためを思ってしてくれていることで、これ以上に善い何がありえたであろう。自然は自分という一個人をすべての人に恵与し、すべての人を自分という一個人に恵与してくれたのだ。

 

 何を所有しようとも、見苦しく固守することも、湯水のごとく浪費することもするまい。善き配慮をもって(自然により)恵み与えられたもの以外、自分が本当に所有しているものは何一つないと信じよう。

 

 自分が施す恩恵をその数や大きさ、その他、受け手の評価以外の何物によっても測るまい。受け手がふさわしいと評価できる人なら、どれほど大きな恩恵であろうと、大きいとは決してみなすまい。

 

 何事も、名声を得るためにではなく、良心に照らして行おう。自分以外知る人のないことを行うときは、何事も衆人環境の中で行っていると考えよう。

 

 自分にとっての飲食の目的は、腹を満たしたり空にしたりすることではなく、自然の欲求を鎮めることとしよう。

 

 友には心地よい人間、敵には温和で寛大な人間となろう。

 

 人の願い事を知ったなら、求められる前に叶えてやり、誠意ある嘆願にはこちらから進んで応えてやろう。

 

 世界がわが祖国であり、その統治者は神々であることを弁え、その神々が自分の言動に目を光らせる監査官として、頭上に、また四方にたたずみたまうと自覚しよう。

 

 自然が生命の息吹を返すよう求めるか、理性がそれを解き放つとき、自分は良心を愛し、善き業を愛し、自分のせいで誰の自由も制約されたことはなく、誰かのせいで自分の自由が制約されたことも決してないと神明に誓った上で、この世を去ろう

 

 

 

 このようなことを誓って生きる人は、たとえそれを実現できなかったとしても、神々に近づくための旅に出るのだとセネカは語る。これほど美しい言葉を述べる哲学者があっただろうか。スピリチュアルの専門用語を一切使わずに、スピリチュアルの真髄の真髄に迫った言葉である。この言葉に秘められた霊験を味わったなら、人生のどんな苦境にあっても、道を切り開いていける気がしてくるだろう。