徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

何もしてない人間ほど、大きな物音を立てる

 カフェで周囲に響き渡るほどの大きな音でキーボードをバッチンバッチン鳴らしてる人がいたら、彼のパソコン画面を覗き込んでみるといい。難解なプログラミング言語でさぞかし複雑なコードを書いているかと思いきや、大抵やってることはネットサーフィンか、社内アンケートに答えるような単純で無意味な作業だけだ。創造的なことをしていることはまずないし、作業画面から精神年齢の低さが窺えるような作業以外をやっていたことは、少なくとも今まで僕が見た限りではない。

 

 職場で大きな物音を立てている人がいれば、彼はまず仕事をしていないし、してるとしても無駄な仕事かやらなくていい仕事だ。大きな音を立てることで、自分は仕事をしていると必死にアピールしている。

 

 クチャラーは食事を台無しにしてるという意味で食事をしていない。彼がしているのは口に物を放り込んで口を開けながらクチャクチャと大きな音を立てて混ぜ合わせることで、それは食事とは言わない。食器を必要以上にガチャガチャ言わせたり、パスタを啜る人も同様である。

 

 JRの車内放送でやたら大声でアナウンスする人は、まるで仕事をしていない。乗客のことを何も考えていないからだ。「降りる駅には、十分にご注意下さい」などと、こんな放送を聞いて、客に何の得があるのだろう。車掌の自己満足にしかならないし、自己満足を仕事と思ってるならそいつは精神病か何かなのだ。

 

 一生懸命何かに取り組む人というのは必ず静かだ。何故ってエネルギーを無駄にする訳にはいかないからである。キーボードを大きな音で叩く人は必ずエンターキーを人差し指か中指で叩いている。それも、大袈裟に腕を高く挙げ、勢いをつけて「パチコーーーーーン!」と、パチンコを弾くようにスタイリッシュにかっこよく音を鳴らすために隼のような勢いで腕を振り下ろす。小指でエンターキーを押す人と比べて、あまりに無駄の多い動きだ。それ故に同じ時間に打てる文字数も小指でエンターキーを打つ人に比べて遥かに少なく、これはもう仕事をしていないのと同義なのである。

 

 職場でずっとおしゃべりをしてる女性はまず仕事をしていないが、それなのに自分達は何か高尚な「会議」をしていると思い込んでるし、それを主張するかのように、会話の内容は「〜さんは仕事できない」とか「〜さんは仕事してない」とかの不毛な悪口である。新しい開発のアイデアについて話すとか、マーケットの分析をおしゃべりな女性達がすることはまずない。有意義な仕事の会話は常に必要最低限の言葉を交わすだけで済む。故に多くの会社での打ち合わせは無駄だし、そんなものは仕事ではない。

 

 テレビでもうるさいだけの芸人というのは、大抵つまらない。他人の尻馬に乗るような、他人の言動をあげつらうような形でしか笑いを取れない無能な芸人だ。そんな芸人は、不祥事を起こしても人望がないので誰もかばってくれず、不人気youtuberになったり謎の会員制クラブを開設したりして、ひっそりと消えていく。ネームバリューに頼ったらそれはもはや芸人ではなく不動産屋みたいなものだ。自分では何も生み出さず、今あるのもだけでみっともなく食いつないでいくような人生だ。職場や公共の場で大きな音を立てる人もこれにあたる。静かに難しいことや複雑なことに取り組むのを避けて、単なる作業や動作を大きな音を立ててする事で、他人に自分を評価して、チヤホヤしてもらおうとする呆れ果てた精神の持ち主だ。しかもこの手の連中は、他人に呆れられるのを感心されてると勘違いするから、永遠に救われない。どこかの環境大臣は何も仕事をしていないが、自分が間抜けな発言したことが叩かれていることが分かると、何か大きな反響があったかのように喜んでいた。彼のような人間は自身の身に何か大きな不幸でも起きない限り、考えを改める気はないだろう。そんな彼を幸福な人間だと思う人もあるかも知れないが、惨めさに気付かないまま老年を迎え、更には死を迎えたりしたら、これほど悲惨で、不名誉なことはないだろう。多くの無駄に大きな音を立てる人も同様に惨めで、死ぬまで気づかないだろうが、死後はもっと悲惨な目にあうだろう。彼らは、言ってみれば駄々をこねてる子供なのだから。駄々を長引かせれば長引かせるほど、当然後に待つ罰は大きくなる。

 

 ついでにいうと、コロナウイルスに対して必要以上に騒ぎ立てるのも同様だ。「コロナとの戦い」だの「勝負の3週間」だの「気の緩み」だの喚き立てるのは仕事でもなんでもないし、何もしてないのと同様である。いやむしろ、そんなリーダーは何もしないことが仕事になるだろう。どこまで行ってもコロナはただの風邪である。感染力が強いのは毒性が弱いからで、それは日本の死者数が示している。まだ1万人程度しか死んでいない。年間の自殺者の方が遥かに多い。陰湿ないじめや長時間労働パワハラで人を自殺に追い込むことに喜びを感じる日本人が、コロナで死ぬことをこれほど怖がるのは滑稽でしかない。人を死に至らしめるような陰惨な行いを日々している連中が命の尊さを語っても何の説得力もない。要は、人の命など、人間の尊厳だの、魂だのをどうでもいいも思ってるから、風邪でここまで大騒ぎできるのである。キーボードをバチバチと鳴らす人間は、同様にコロナに大騒ぎし、災害妄想を楽しむことだろう。だからコロナは終息しないし、だから日本の労働生産性は低いし、コロナで死ぬより遥かに多く、自殺者が出るのである。

 

 更に言うと、大きな物音を立てる人間は、何もしてないし、何一つ「できない」。彼等はより正しい人間には無力で、彼等の下卑た攻撃は多くの場合徒労に終わる。彼等は高潔な人間に苛立ちを、親切な人間に不快感を、思慮深い人間に浅慮を与えようとするが、そのいずれの試みも無駄に終わるだろう。子供がいくら駄々をこねても、優れた親ならその幼稚な要求に屈したりしないのと同じで、徳のない人間の強欲にすぎない「物音」に込められたクレームが、成就することは金輪際ありえない。一見ありえたように見えることがあっても、大抵は前より更に幼稚になってるだけなので、更に彼等は満たされなくなり、要求はいっそう通らなくなる。

 

 それが死後ともあれば、尚更だ。生きてるうちは、キーボードは叩かれても大人しくするが、幽界では、生前無神経な人がキーボードにたっぷりと込めた猥雑で乱暴な気持ちが寄り集まって幽鬼となって、キーボードをしばいていた人に復讐するだろう。だからモノは大切に扱わないといけない。大きな物音を立てることは、死後に自分を襲う幽鬼を育てるということなのである。