徒然なる哲学日記

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日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

「コミュニケーション能力」という言葉の下劣さ

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「コミュニケーション能力」という言葉は「人脈」に並んで下品な言葉だと思うが、これほど世間で大手を振って歩いてるのは、それだけ日本人の精神性が堕落してしまったということでもある。「彼はコミュニケーション能力がない」「最近の学生はコミュニケーション能力がない」など、本来は自分が教え導く立場にある相手に対して品定めを行い、かの下品な言葉を何の恥も外聞もなく使うみっともない大人がとても増えた。

 

 では、どういった点が下品なのだろうか。それは、次の一点に集約される。「コミュニケーション能力」という言葉は、「人間関係から利益を得ようとする精神」に端を発しているからである。これがどういうことか、もう少し詳しく見ていこう。

 

 例えば、大学教授が、「最近の学生はコミュニケーション能力が低い」という場合、これはどういう意味だろうか?それは、言い換えるならば、「最近の学生は偉大なるこの私との人間関係において、私に何ら利益をもたらさない!私に何も貢ぎ物をしない!どうしたことだ!けしからん!最近の学生は腐ってる!」と言ってるのだ。例えば、教授である自分を持て囃さない。自分に忖度しない。自分の学問の成果を誉めそやさない。自分に女子学生を斡旋しない。かわいい女子学生が自分に股を開かない。みんな自分を持ち上げない、といったことに不満を抱いた大学教授が、「コミュニケーション能力」という下品な言葉を巧みに使い、さも非が学生の側にあるかのような風潮を作り上げ、学生になかば脅しをかけるような形で、上にあげたおよそ教育者を名乗るに値しない下劣な欲望を満たそうとしているのだ。

 

 では就活ではどうか?これも同じことで、新入社員との人間関係から何らかの利益を得ようと面接官が期待してる時に、「コミュニケーション能力」という概念を持ち出す。自分や先輩社員に媚びる就活生、自分に利益をもたらすような人脈を持ってそうな就活生、自分に女を斡旋する能力がありそうな就活生、自分に股を開いてくれそうな女学生を歓迎して、「彼等彼女らはコミュニケーション能力が高い」と言っているのだ。まあ会社から賃金を貰うのだからある程度は仕方ない面もあるが、そんな風に会社を人間関係から利益を得る場だと思って働く人が増えたから、モノ作りが貧弱になり、日本は世界で戦えなくなってしまったのだろう。

 

 面接官はともかく、大学教授が「コミュニケーション能力」の高さを学生に期待するのは、とても恥ずかしく情けないことだ。本来であれば導いて与える立場にあるはずの教育者が、学生との人間関係において自分が何らかの利益(それも性欲や支配欲に端を欲する、唾棄すべき利益である)を得ようとするのを、至極当然の権利か何かだと思っているからだ。教授と教え子という人間関係がある時に、教授が教え子から何かを得ようと期待することが、恥でなくてなんだろうか?ところが、こんな恥を当たり前のように晒すどころか、それを学生に要求するのを教育者として当然の権利、ひどい場合は立派さの証だと思ってる惨めな大学教授は沢山いる。彼等はもは教育者ではなく、学校をキャバクラか何かと勘違いしてる色欲に塗れたボケ老人のようなものである。自分がいかにして学生を教え導くかではなく、学生からいかに忖度や性的な悦びを得るかを虎視眈々と考えているのだ。故に彼らの授業は退屈で、無益なのである。学生に何を自分が与えうるかなど、露ほどにも頭をよぎったことはないのだから。

 

 つい先日、東京大学の理三の受験者が、筆記で充分に合格点を取ったのに、面接で落とされたというネットのニュースがあった。ことの真偽は定かではないが、もし本当なら、東京大学はもはや最高学府を名乗る資格はないと言っていいだろう。舌舐めずりしながら受験生を品定めして、いかに自分達に利益をもたらすかを勘定しながら、一生懸命勉強してきた学生を嘲笑うように落とすというのであれば、それは教育者の態度では全くない。ただの下品なおっさんであり、そんなおっさんが学生に及ぼす悪影響の深刻さは大きい。

 

 また、仕事においても「コミュニケーション能力」を重視していくということは、日本を水商売の国にするということを意味する。即ち、観光、飲食、サービス業etc…。モノづくりで世界と戦えなくなったから、そういう方向に労働者の能力をシフトしていくという意味なのだろうか?それなら「コミュニケーション能力」重視の風潮は正しいと言えるが、それなら日本はどんどん貧しくなっていくだろう。

 

 日本からGAFAのような企業が生まれなかったのも、コミュニケーション能力を重視し、ただ忖度が得意な人間や女を斡旋する能力がありそうな人間を重用してきた結果だろう。真面目に仕事をしても無駄だと分かった結果、技術者はやる気をなくし、新しいアイデア老害の機嫌を損ねるという理由で潰されるようになった。東京大学が面接を重視するようになったということは、受験機会の公平が失われたことを意味する。学生はますます勉強しなくなりバイトやサークルや恋愛に打ち込み、社会に出てから水商売的な仕事で大いに活躍するようになるだろう。誰もGAFAみたいな企業を作ろうとしない。だって先輩や上司や先生の機嫌を損ねるから。だから新しいモノや価値あるものを生み出すよりも、今あるものから人間関係をうまく使って利益を掠めとっていくことが仕事になる。新しくモノを作らなくなった国に残された道は観光産業だ。今あるものをずっと使い続けて利益を得ることができるからだ。日本は観光大国になりさがり、中国あたりの金持ちの機嫌をとるのに、持ち前の「コミュニケーション能力」を大いに発揮するようになるだろう。それが、知識や技術を軽視し、学生がどれだけ勉強してきたかよりも、いかに自分に媚びるかを重視した教育を行ってきた大人達は、我々に中国人の靴の裏を舐めろと言っているのである。自分が女子学生にちんぽを舐められないことに憤る大学教授は、その逆恨みに日本経済を破滅させるつもりだろう。