徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

歩きスマホをする人間は何故駅のホームでポケットに手を入れて歩くのか?

 飲食店でトナラーに遭遇したら、高確率でそいつはクチャラーで、ススラーである。会社で大きな音でキーボードをバタバタ叩く人間がいたら、彼は間違いなく仕事ができないし、部下を持ったらパワハラをする。同じように、歩きスマホをする人間は駅のホームでスマホ片手にポケットに手を入れて歩き、電車内では他人との社会的距離を保たない。

 

 駅のホームでの歩きスマホや、ポケットに手を入れて歩く行為は極めて危険で、いずれも犯罪行為にかぞえていいと思う。特に乗り降りの際もスマホをぼーっと眺めながらいっこうに前に進まない人が前にいて、イライラさせられた経験のある人も多いのではないだろうか。これらの行為を平気でできるのは自己中心的とか周りが見えてないという以前に、認知能力の大事な部分が少なからず欠陥している可能性が高い。自分の行為が、周囲に、ひいては自分の未来にどのような影響力があるか考える能力が足りないのだ。これも、学校での暗記教育の悪影響かも知れない。学校では暗記が重視され、原因と結果の関係を考察するような思考力は育成されない。歩きスマホやポケットに手を入れて歩くという「原因」が、駅のホームへの転落や或いは他人をホームへと突き落とすという「結果」に繋がる可能性が高まることが想像できないようだし、何やら自分は安全だと思い込んでるらしい。

 

 彼等がそれまで生きてこれたのは、周りの人達が彼等に気を配った結果に過ぎない。駅のホームでは周囲が避けて、乗り降りの時は蹴飛ばしたいのをじっと我慢し、ポケットに手を入れて不安定な人を避けて歩いてきたからだ。朝のホームは急いでる人も多いだろうから、歩きスマホをしながらポケットに手を入れて歩く人は、本当に迷惑なのである。迷惑の総量を考えれば、とっくに死んでもおかしくない連中だ。周りの配慮で、「たまたま」生き延びてこれただけなのである。そんな人間は、学校や職場などの日常生活の中でも、他人に迷惑をかけるのが立派な証だとでも思ってるのだろう(潜在意識では少なくともそうだ。ポケットに手を入れて歩きスマホをしてる人間は排泄物を垂れ流しながらそれを他人に掃除させることに快感を感じてるボケ老人と何ら変わらないのである)。

 

 このような下劣な輩がいる限り、新型コロナウイルスはなくならないだろう。ワクチンができても、変異を繰り返し人々が適切に他人を気遣うことができるようになるまで何度でも流行するだろう。気遣うと言っても、必要以上に優しくしたり、余計なお世話をすることではない。ただスマホから少し顔を上げ、ポケットから手を出して歩くという、それだけで、新型コロナウイルスの問題は解決するのである。