徒然なる哲学日記

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日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

【20世紀の】書評〜夜と霧〜【名著】


夜と霧 新版

夜と霧 新版

 今回は20世紀の名著、ユダヤ人の精神科医である著者が第二次大戦中に強制収容所で体験した壮絶な極限状態を、精神科医という独自の立場から俯瞰して振り返ったものを叙述したものである。

 現在、いじめにあってる子供(には少し難しいが…)や、ブラック企業で理不尽な目に遭ってる人(僕のことだ)に是非とも読んで欲しいものである。

 本の内容を簡潔にまとめると、以下のようなものだ。

『人間は、どんなに理不尽な状況でも、辛く苦しくても、自分の意志に従い、気高くあることができる』

 つまり、人間は自由だということだ。よく哲学の命題で、人間は自由な存在なのか?環境や遺伝子、状況に左右され、その電気的・神経的な反応の結果としての行動があるのみで、自由な意志など存在しない、と言われる(代表的なのはカントの純粋理性批判)。

 この著者は、収容所で極限状態にあっても、自らの内面に拠り所を見出し、他者に親切にしたり、神に祈ったり、希望を見失わなかった人達のことを記している。もちろん、死んだしまった人もいるが、だからといって、その死に価値がなかった訳ではない。むしろ『どんな態度で死んでいくか』に価値が、意味があるのだと強調している。

 哲学者、神秘学者のルドルフ・シュタイナー自由の哲学の中で、どんな状況にあっても、自分自身に従うことのできる人が自由なのだと述べた。

自由の哲学 (ちくま学芸文庫)

自由の哲学 (ちくま学芸文庫)

 同じように、ヴィクトール・E・フランクルも述べているが、強制収容所という極限状態を体験した人の言葉だけに、ありありとした実感を伴ってその意味が伝わってくる。 

 収容所では、様々な理不尽に苦しめられる。ちょうど労働を賛美する今の日本で、資本主義社会で、様々な理不尽な思いをするように。監督からのつまらない嫌がらせ、整列してる時に列がほんの少し乱れていたら殴られる、床がほんの少し汚れていたら殴られる、労働に不向きだと見なされたら、ガス室送りにされる、侮辱され、罵倒される、などなど…いずれも日本の会社社会でもよくあることだが…。

 でも、そんな状況にあっで、自分を貫くことはできる。幸い、今の日本には、表現の自由がある。自民党の悪口を書いたからといって処刑されることはない。クソ上司やクソ会社に理不尽な思いを強いられ苦しめられても、こうやってブログで高尚(?)な哲学を語ることで、自分を見失わずにいられる。たしかに、自分の理想に従い生きる限り、人はどこまでも自由だ。会社の糞みたいな人間とは裏腹に、どこまでも高潔さを求め、羽ばたくことができる。

 状況は関係ない。常に自分自身の理想に従うことはできると、ヴィクトール・E・フランクルはいう。つまり状況に依存せず、自分らしく生きろということだ。それは厭世主義になることではないし、無責任になることでもない。むしろ自分生き方に責任を持つということであるし、このように自律することは人間に課せられた責務た。

 労働に依存してはならない。集団に埋没してはならない。常に自由を目指し、自分自身の心の声を大切にすることだ。コロナウイルスもきっとそんなことを教えているだろう。

 この「夜と霧」は僕の敬愛するブログ「itスペシャリストが語る芸術」で頻繁に紹介されているものであり、僕が名著とおススメする下記の本
 内でも頻繁に紹介されている。またシュタイナーの自由の哲学の理解を深めたいという方にも、おススメできるものだ。

 辛い状況、苦しい状況にある人に、是非とも読んで欲しい本だ。現実を変えることはできなくとも、あなたが気高く生きることの一助になることは保証しよう。現在3周目を読み進めている。優れた本は自ずと読者に周回を促すものだ。神ゲーのように。