徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

ソシャゲ(ガチャも含む)ってそんな悪いものだろうか?

ソーシャルゲームに廃課金をして借金をした…なんて人の話をよく聞く。

ガチャの射幸性を煽るシステムがよく非難されるが、ソシャゲってそこまで悪いものなのだろうか?

別にガチャに限らず、現実世界でも株やパチンコ、風俗やホストに「課金」して破産する人というのは沢山いる。そういった人達と、ソシャゲに課金する人達は何が違うっていうのだろう?

 

「ソシャゲじゃなくて、現実に楽しめる趣味を見つけなさい」なんて人がいる。現実に楽しめる趣味って何だ?車?女?旅行?習い事?

どれも、莫大な金がかかる上に、準備が大変だ。

その点ソーシャルゲームは、スマホ一台で、場所も時間もあまりとらず、世界中の人達と交流できる。金と時間をかけた分、キャラクターは育つ。無料分のガチャを回して強いキャラが当たったら得した気持ちになれる。

 

現実世界の高尚な「趣味」とやらは…どれも、利権臭くないだろうか?スポーツが趣味というなら、別にウォーキングでもいいのに、何か、道具や専用の場所を使ったものでないと、スポーツと認めないという人達がいる。クラシックが趣味というと、どこかの豪華なコンサート会場に立派な服を着て行かないといけないと思ってる人達がいる。ベートーヴェンの安いCDを壊れかけのプレーヤーで再生することだって、立派なクラシック鑑賞だ。

 

ソシャゲのいい所は、「気取ってない」所だろう。老若男女だれでも参加できて、世界中の人と遊べる。金に余裕がある人は課金すればいい。そのお金で多くのクリエイターが食べていけるのだ。車や旅行に課金するよりも、よっぽど安上がりだろう。煩雑な手続きや準備が必要な「現実」の趣味と比べて、ソシャゲは余程コスパがよいではないか?

 

また、twitter2ch掲示板などを通して、沢山の「仲間」との交流も楽しめる。現実の趣味の交流における、互いの社会的地位の探り合いや、異性を巡った醜い争いとも無縁の優しい世界だ。

 

もちろん、ガチャに必要以上に課金して破産なんかしてしまっては元も子もないが、そもそもガチャにそれだけ依存的に課金する背景には日常生活での悩みであったり、人間関係の悩みがあったりするのであり、廃課金は結果に過ぎない。僕も現実世界では女の子に男として認めて貰えないから、ソシャゲの中の女の子達に沢山課金しているが、これはこれで結構楽しいものだ。絵に関心を持って、絵師を目指すきっかけになるかも知れない。

 

それと、売れるソシャゲというのは、必ずゲーム性に最低限の面白さを必ず持っている。そうでないと、売れるはずがないのだ。最低限の面白さとは、ある程度の難解さであり、思考力を要求するものだ。軽い頭の体操くらいにはなるだろう。

 

ソシャゲがこれだけ流行るのは、それだけ寂しい時代と言えるだろう。かといって、ソシャゲを禁止した所でその寂しさが薄れるわけではない。ある程度の難しい作業の中には必ず内面の「成長」がある。ゲームは人を成長させると、少し言い過ぎだが僕はそう思う。必要だから、存在してるのだ。