徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

毒親というものについて

ニートが生まれる原因に労働市場からの、淘汰があるが、他の原因の一つとして巷で話題の「毒親」がある。


さて、ここで「親」というものの存在について、神秘学の観点からシュタイナーの言葉を借りてみよう。シュタイナーは「親が子供を食べさせているように見えるが、霊的な観点では親が子供を食べている」と言った。


さてこれを考察すると恐らく、親は子供を通して霊的なエネルギー(気といっていいかも知れない)を搾取していると言っていいだろう。エナジーパンパイアという言葉があるが、親というのはまさしく子供を通してエナジーをドレインしてるのだ。では具体的に、どう言った形でドレインするのだろうか?


例えば

・子供を否定する

・子供にマウントを取る(仕事や勉強などで)

・子供にコミュニティを与えない(友達付き合いを制限したり、部活を辞めさせる、など)


こういった形で子供からエネルギーを奪い、自分がイキるための活力源にしたりする。場合によっては夫婦一体となってこれをやってくるから子供は大変だ。いつまでたってもイキっていたい親というのは、職場の老害パワハラ上司みたいなものだろう。共通してるのは、自分が楽してチヤホヤされるために、逆らえない相手にマウントを取るということだ。また多くの教師もこれを実践している。親・教師・上司というのはパワハラを通してイキりに必要なエネルギーを搾取する存在と言える。そう考えたらニート不登校児には、その被害に頑張って耐えた健闘を称えて、国から補助金の一つでも出してやればいいのではないだろうか?もっとも、国も国民からエネルギーを搾取することでイキってる(東京オリンピックを見れば分かる)から、同じようにニートを叩くのだろうが。


毒親の多くは青春に対してコンプレックスを抱えているように見える。もっとチヤホヤされたかった。もっとモテたかった。俺は私はもっと異性に注目されて然るべき存在だ。


そんな不満を癒すのに、子供というのは格好のサンドバッグだ。ダサい服装をさせて、ダサい習い事をさせて非リアにするもよし。男子校女子校に行かせて青春できなくさせるもよし。お受験をさせて親の体裁のための道具にするもよし。どんな風に育てても親と子の力関係があるから逆らえない。そのまま向き合ったら自殺するようなコンプレックスも、子供に押し付ければ生きていけるのだ。


だからニートの親は元気に外で働いてたり、無駄に活動的だったりする。社会で必要とされない自分の子供を見て優越感を抱き、自分は働ける優れた人間だと満足できるからだ。


ニートの親は恋愛にコンプレックスを抱かずに済むようになる。だって子供は自分より異性にモテないのだから。少なくとも自分は子供よりはイケてると思えるのだから。


秋葉原の加藤の母親も、根底にあるのは恋愛コンプレックスだったのだろう。それを忘れるためな、加藤をサンドバッグにしたと思える。聞いた話によると、加藤の母親は、息子が事件を起こしたと知ると、すぐに美容院に行って白髪を染めたそうだ。これがどういうことかというと、「テレビに出るんだからおめかししなきゃ!」ということである。恐ろしい話だ。子供が事件を起こしたら、それを利用して自分がどう目立つことができるか?どうチヤホヤされることができるか?を真っ先に考えているのだ。テレビに映った加藤の母親は、マスコミの前で崩れ落ちるというパフォーマンスを見せた。これを見てかわいそうと思った若いイケメンが、自分に優しくしてくれる妄想でもしていたのだろうか。


さて、こんな風にニートの親はいつ崩れるとも分からない自尊心を、子供にうんこを食わせることで何とか耐えているような存在なのだ。だから、いざニートが自立すると、今度は自殺しそうになるか、はたまた病気にでもなって介護をしろとでもいうのだろう。子供の成功に目ざとく嫉妬し、そこから何をどうすれば「子供ではなく」自分がチヤホヤされるかを終始計算している。


毒親というのも反知性主義の産物かも知れない。知性や倫理を研鑽することを忘れ、自分が逆らえない相手に服従を強いることで、バカなままでチヤホヤされようとするのだ。


これも一つの時代の中での必然かも知れないが、せめて正しく状況を認識することで、未来の地球へバトンを繋いでおこうと思う。