徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

仕事ができると舐められる

 「できる人に仕事が集中する」ともっともらしく言う人がいる。換言すると、「仕事はできる人に押し付けられる」ということだ。さらに言うと、「仕事ができると舐められる、だから仕事を押し付けられる」ということだ。一般に、仕事ができると尊敬され、できないと舐められるというのが世間一般の常識となっているが、実際はその真逆である。仕事ができない(しない)人が尊敬され、仕事ができる人は舐められ、侮蔑され、嘲笑の対象となる。

 

 スポーツ選手は特に人の役に立つ仕事をしてる訳ではない(エッセンシャルワーカーではない)のに莫大な金と名誉を貰い、異性にもほぼ不自由しない。投資家はニートと同じようなものだ。天下り役員は業界の知識も経験もロクにないのに、会社で思いつきを垂れ流して社員を振り回して鬱病にさせたりして遊ぶことで莫大な役員報酬を貰い、無責任な仕事をたっぷりと満喫し、余生を楽しむ。

 

 世の中人から尊敬されたり莫大な金を貰う人というのは、殆どが真面目に仕事をしてない。玉遊びをしたり思いつきを垂れ流したりしてるだけで、いてもいなくてもさほど困らない人達だ。政治家の給料なんてすごいもんだ。国民の金で生活してる彼等が、更に金持ちになろうと国民にタカるのだ。国民を豊かにするという政治家として果たすべき仕事は何一つしていないのに、自分の報酬が減ることは、何一つ許さないのだ。

 

 世の中を回すのに必要な仕事をしてる人達、介護や運送や農業や工業に携わる人達所謂エッセンシャルワーカーは、薄給激務な上、人に舐められる。会社内で人一倍仕事をする人というのも、尊敬されるのではなく、舐められる。そして、給料面でも評価されない。世間からも会社からも評価されるのはロクに仕事もしてない人達で、それは、政治家やスポーツ選手と同じだ。世の中の役に立っていない人ほど何故かデカい面をして、偉そうで、適当な思いつきを垂れ流し、頭の悪い人達がそれに追従する。イチローの何が立派なのか僕にはさっぱり分からないが、彼が朝カレーを食べていると、それに倣って朝カレーをするバカが沢山存在する。

 

 要するに、世間でも会社でも、仕事ができると舐められ、できなくても偉そうな人間が評価される。「仕事ができると尊敬される」という妄言を吐く人がいるが、それは女が「優しい人が好き」というのと同じだ。女が実際には暴力的な人間に媚を売り喜んで股を開くのと同じように、世の中は仕事をしない癖に偉そうな人に喜んで奉仕し、莫大な給料を払い、手厚い待遇を与える。総理大臣は大した仕事の経験もないし、経済のリテラシーもないし教養もないし、最近の傾向だと低学歴化も甚だしい。要するに、仕事ができず勉強もできない人間が高い地位を得ているということだ。会社ではロクな教養もない成金社長や天下り役員が威張り散らし、自分は最高に理性的で道徳的であるかのように発言し、どうでもいいルールを勝手に作り社員を振り回す。

 

 人の上に立つのに、仕事ができたり勤勉である必要はない。強いていうなら、今の時代は異性ウケだろうか。結婚してたりすると、男は実力以上に評価され、出世もしやすくなるし、パワハラやセクハラをしても独身者の場合よりお咎めが少ない。むしろ甲斐性と捉えられることもある。女性が社会進出したことで、よりその傾向は強まった気がする。女は既婚者が好きだし、無能な既婚者と有能な独身がいれば、前者を仕事ができる人間と周囲に吹聴し、後者をゴキブリ扱いして給料を下げさせたり、会社から追い出そうとする。

 

 発達障害の人が舐められるのも、仕事ができるからかも知れない。特定の分野に異様なまでの集中力を発揮する彼等は、特定の仕事に異様に秀でているということになる。それで評価されるのかというとそうではなく、誹謗中傷される。スポーツのできる既婚者の「健常者」とその取り巻きの女性達から、「何必死にやってんの?w」と嘲笑される。彼等彼女らは何でも「おしゃれ」なことを好むので、仕事でも何でも必死に取り組んで色々苦心することが、何かとてもみっともない恥ずべきことのように考えている。その癖、スポーツなどのような無駄な運動をして、「仕事してるフリ」をすることには異様に長けている。僕の会社の無能な先輩も、どうでもいいことをやたら偉そうに、重大プロジェクトのように後輩に命令していた。部屋のレイアウトがどうとか、消耗品の注文がどうとか、要するに、ロクな仕事を何もしていない訳だ。そんなどうでもいいことでも、後輩に偉そうに言うと、バカな女の人達は、それを男らしさだと思い、無能な先輩が大変仕事ができる人だと思うのだ。

 

 仕事ができる人が突然辞める背景は、大体こんなものだろう。仕事ができると舐められる。誰だって、舐められ続ける職場にいたいとは思わない。仕事ができても尊敬されない程度なら我慢できたかも知れない。静かに過ごすことができたら充分だったかも知れない。だが実際は、舐められ、更に余計な仕事を押し付けられ、残業や休日出勤を強制され、陰口を言われ、退職に追い込まれる。多分、人間の本能で、仕事ができる人間は、「こいつは仕事を押し付けられるべき弱者だ」という認識が生まれ、集団全体がいじめと追放に向けて動くようになるのだろう。勉強熱心な学生が「ガリ勉」とバカにされ、部活同に勤しむ卑劣ないじめっ子が「立派」とされるのは学校でも同じだ。(エドガー・ケイシーガリ勉をバカにしていた。それだけの理由で僕はエドガー・ケイシーを全く尊敬できない)。エッセンシャルワーカーがしばしば世間から嘲笑され、誹謗中傷されるのと同じである。ロクに働かずに莫大な金を貰うような立場の人達が、必死に働く介護現場の人達を、低賃金で過酷な労働に耐える外国人技能実習生の人達を、「そんな仕事にしか就けない自分達が悪い」「金が欲しいならもっと努力しろ」と一切努力せずに時の運で今の仕事にありつけた無能な人間が、一生懸命働いてる人達に罵詈雑言を浴びせるのである。社会は彼等エッセンシャルワーカーが支えているのであり、大して働かずに莫大な給料を貰う人達は感謝するどころか、誹謗中傷を浴びせ続けるのである。これはちょうど、生活保護を受ける人達の態度が役所や病院で最悪なのと同じで、人は自分が恩を負ってる相手をしばしば憎むのだ。

 

 まあそんな風に、仕事ができる人を侮蔑し、誹謗中傷してきた結果、今の日本がある。人手不足が蔓延し、大企業は自分達の所に仕事ができる人がいないので、複雑で価値のある仕事は全てが外注する。ここでも仕事のできる中小企業は舐められ、無能な大企業はやたら偉そうだ。中抜き業者も盗人だからとても猛々しい。そうして仕事をする人をバカにしてきた結果、当然のこととして日本の経済成長は衰退し、技術で戦えなくなり、キットカット吉野家の牛丼も、どんどん高くなるかリニューアルと称して中身が減ってきている。まあ今までが、大した仕事もしてないのに贅沢をしすぎていたと考えれば、妥当なのかも知れないが。それでも相変わらず街はグルメだのファッションだの下らない贅沢のために大勢の人が出歩く。ロクに仕事もしてないのに、よくもまあそれだけ快楽を享受できるものだと、会社の無能だけどやたら偉そうなおばさん達を見てて思う。彼女らは海外旅行の話が大好きだが、学歴も教養もない連中が海外にいくことに価値があるのだろうか。多分、猿が宇宙に行くことより遥かに無意味だろう。無駄な仕事をして威張る連中というのは、無意味な贅沢に身をやつしたがるし、無意味なおしゃべりしかしない。小泉進次郎が無意味なおしゃべりを大好きだったのと同じだ。彼は自分の無意味なおしゃべりに酔いしれ、意味のある質問をされると、酔いを台無しにされたことでとても不機嫌な顔になった。おいしいノドグロのことを語ることが彼にとって素晴らしく崇高な仕事で、それを否定されるのは何にも増して許せなかったらしい。

 

 ついでにいうと、残業する人というのは、仕事をしていない。強制される場合は別だが、大抵の残業アピールをする人は同じ会社の若くて可愛い女の子にモテたいだけで、無意味なことしかしていないし、そいつの残業が果たして会社の利益を生み出してるのかと、精査してみるといい。僕の会社で残業しまくって会社の利益を食いつぶしてるオッさんは、会社をキャバクラか何かと思っていて、キャバ嬢に必死にアピールすることを仕事だと思っている。当然、彼が利益を生み出すことはないし、誰の役にも立つことはない。無能の天下り役員のハゲは、このオッさんを、仕事熱心だということでいたく気に入っている。無能同士、惹かれ合うものがあるのか、無能が無能を重用するという世の中の仕組みが見て取れる。

 

 仕事ができると舐められて退職に追い込まれるが、そうでないと、サボってると女に陰口を言われて、上司から罵詈雑言を浴びせられるパワハラを受けたり、鬱病になるまで追い込まれたり残業や休日出勤を強要されたり、無視されたり仕事を干されたり、退職に追い込まれたりという立場の人も多いだろう。だがいずれにせよ、「仕事ができると舐められる」という真理を否定する理由にはならない。人を舐めることを何か崇高さの証として是認する場合を除いて、であるが。

 

「勉強法」を教える人は、マウントを取りたいだけ

 「哲学を修めるためには、どのように勉強すればよいですか?」と君は尋ねる。セネカとシュタイナーを読みなさい、と私は答えるだろう。

 

           by ブログ著者

 

 

 

 とまあ、別に冗談で書いた訳ではないのたが、こんな話も真に受けない方がいい。どの哲学者がいいとか、どの神秘思想家がいいとかは人それぞれだし、本を読むのが性に合う人もいれば、漫画やアニメや映画やドラマから哲学や霊学のヒントを得る人もいる。勉強するのは大切なことだが、どんな勉強方がその人に合うかはその人が好きに選択していけばいいのだ。

 

 それゆえに、よく東大出のタレントとか著名人が、「〇〇日で〇〇試験に合格する勉強法」とか、つまらないyoutuberが勉強法について有り難く語っていたりするが、その多くはしょうもない受験テクニックや暗記テクニックで、思考の本質を鍛えるものでも人格を修養するものでも何でもない。百害あって一利なしの垂れ流し思想であり、その多くは単なる彼らのたい体験談に過ぎない。こと勉強法については、自分で工夫して試したものが、一番学習の効率がいい。どんな勉強法かというのとはさほど問題ではない。「自分で工夫した」という点が大事なのだ。これは、受験勉強においても、人生においても同じである。例えば、英単語を覚えるのに、何度も音読するとか、毎日朝に単語を何個音読するとか書き取るとか、辞書の例文を書き写すとか、やり方は割とどうでもいい。自分でしっくりくるものを自分で工夫して選び取ることが大事だ。それは自分自身と対話する訓練でもあるし、自分の直観力を鍛えるのにも役立つ。そうした試行錯誤の経験というのはたとえテストの結果や受験の結果に繋がらなくても、自分の人生において大切な財産になる。最悪なのは、他人に言われるがままに勉強のやり方も決めて、自分で一切工夫や試行錯誤をしてこなかったパターンの人間である。そんな人間は、自分一人で考えて試行錯誤するという癖を持たない。「はじき」を使って速さと時間と距離の計算をしていた彼らは、大人になったら「フレームワーク」を使って仕事の問題を何か解決した気分になっている。自分の頭を使って工夫して生きてこなかった彼らは、職場でお絵描きをして遊んで金を貰う恥ずべき人間になるのだ。

 

 それなのに、「正しい勉強法はこれだ」などと言って単なる思いつきに過ぎない自説を権威づけたがる人間が尽きないのは、これまたマウントを取りたいからなのである。暗記だけは得意なバカがたまたまテレビで自慢できるような学歴を手にすると、自分は何か素晴らしい叡智も持っているのだと勘違いして、人を少しも賢くもしない、優しくもしない、立派にもしない、物分かりよくもしない「暗記テクニック」を、したり顔で披露する。そして同じように自分で考えるアタマを持たない哀れな視聴者(信者)達は、そのノウハウが書かれた本を買って(お布施を払って)自分が少しでも賢くなったと偽りの幻想で自分を慰めるのだ。

 

あらゆるフレームワーク(小学生の落書き)は「無意味でかつ有害な自己満足」に過ぎない

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「アホ・バカ・うんこ(うんち)」について分かり易く理解するための神フレームワーク。名付けて「ABU(アブ)」

 

※…ABUはそれぞれ「アホ」「バカ」「うんこ」をローマ字表記した時の頭文字である。「アブー」と読む人と「アブ」と読む人に分かれるようだ。著者は好んで「アブ」と読むようにしている。このツールを使って著者は年収1億円を達成した。

 

↓ここからブログ本文

 

 つるかめ算を解く時には図形を描くと分かりやすいが、ビジネスにおいて問題を図形とかフレームワーク(なんかよく分かんない図形を使って考えることをフレームワークというらしい。この言葉も意味不明だ)を用いて考えるのは単に時間の無駄とというよりは、人生の無駄である。これはビジネスに限ったことではなく、自己啓発本なんかに描かれている、樹系図でモノを考えるとか、なんとかツリーとかなんとか図形とかなんとか、メモの魔法とか、直観と論理を結びつける思考とか、とにかく四角い箱で言葉を囲んで、それを順序良く並べ立てて積み上げたり別の言葉と線で結んだりするだけで何か難しいアルゴリズムを組んだ「つもり」になってしまうのだから、自己満足というのは恐ろしい。

 

 「はじき」というのを小学校の時にバカな教師から教わってしまった可哀想な方は沢山いるだろう。速さと時間と距離の計算で使う、謎のフレームワークである。単に距離=速さ×時間だと知っていればいいだけの話で、「はじき」などという気色悪い用語を使うとかえって分かりにくくなる。

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↑意味不明なフレームワーク。こんなの教えてはしゃいでいる教師は狂気でしかない。教わって喜んでいる小学生もうんこをカレーと思って喜んで食ってるようなものである。

 

 そもそも、速さと距離の問題は、縦軸に距離、横軸に時間をとったグラフを描いて、それを図形的に比例計算を用いて解釈するやり方が小学校の算数では圧倒的に便利で、そうしたものを本当の「図形」といい、「アルゴリズム」や「問題解決方法」と呼んでいいだろう。「はじき」を描くのは問題の抽象化であり、アルゴリズムではない。かえって分かりにくくなってるし、問題解決から遠ざかっている。このように、無意味な「フレームワーク」を幼い頃から繰り返してきた日本人は、問題の解決という具体的なアルゴリズムが要求される場面でも、抽象的なお絵描き遊びをして金も時間も自分の人生も無駄にするという働き方をしてしまっている。パワーポイントをやたらと日本人が有り難がるのも、小学生時代に沢山の「はじき」を描いてきたことの名残りだろう。社会人になったら学生気分は捨てろというが、パワーポイントでフレームワークというお絵描きをして遊んでる人間は、小学生レベルなのである。

 

 就活でいうと、自己分析がそのフレームワークにあたる。そんな無駄なことをしてる暇があったら一社でも多くエントリーシートを書くべきだし、企業の情報を収集すべきだ。

 

 そして、ビジネスにおいては、SWOT分析なるものが、人気のフレームワークらしい。(全てのフレームワークが無駄である以上、もちろんこれも無駄なので説明するのも面倒臭いが、ここでは無駄だということを強調するために紹介する)。

 

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 簡単に言うと、自社の強みと弱み、他社の強みと弱みを分析して、仕事の方向性を決めていこうというものらしい。アルファベットが何の英単語の略かをいちいち調べるのも面倒なのでそこは割愛させて頂く。まあ要するに、これも「はじき」と同じで、かえって問題を抽象化して分かりにくくする時間と人生の無駄遣いということさけ知っておけばいい。自社の強みと弱みを理解しながら普段から仕事してないような人間は終わってるし、他社の強みと弱みを多少なりとも知らないのは市場分析ができていないということで、それもあり得ないだろう。そもそも、この「SWOT分析」なるフレームワークを用いた所で、何か仕事上の新しい価値を生み出したり、仕事の効率化に繋げることができるのだろうか?強みがありますね、活かしましょう。弱みがありますね、克服しましょう。そんなことは普段から皆当たり前にやっているのである。だから勉強するし色々調べるし、悩んでいるのである。それなのに何が今更「分析」なのかと、現場で懸命に工夫して仕事してる人達からすれば、あまりにバカにしたお絵描きである。このようなお絵描きをして業績が上がった企業など、恐らく一つもないだろう。問題の分析なんて個々の社員が自分のノートに汚く書き殴ったもので充分だし、そんなメモ書き程度のものを資料に行われる打ち合わせから、素晴らしい仕事のアイデアや業務の効率化方法というのは生まれてくるものだ。「はじき」を使って全国の沢山の小学生はおバカになってしまい、それを大人まで引きずっているから、ビジネスでも自己啓発でも何でも、下らないフレームワークを有り難がるのである。自己啓発をしたいならまずは古典を読めばいい。ギリシャやローマの哲学を学ぶのが一番いい。最も手軽に読めて、それでいて内容の深い本は、「ソクラテスの弁明」である。これは、理不尽な仕打ちに負けないビジネスマンのための本である。「はじき」なんか描いて遊んでないで、プラトンの名著「ソクラテスの弁明」を今すぐに日本中の全てのビジネスマンは読むべきなのである。そして、そんな本を読んでいてふと目に入る一文とか、一見すると何気ないことが書かれているだけのように見える一文なんかが、仕事上での困難とか、自分の人生を切り開いてくれたりするのである。つまりは、真の意味での自己啓発本だ。

 

 

 図形を使った何たら思考法だの、人生を変える手帳術だの、仕事を劇的に良くするSWOT分析だのという、「はじき」の延長線上にあるしょうもないフレームワークとは縁を切ろう。図形を使って考えた「つもり」になるくらいなら、小学校の幾何学の問題でも解いている方がよほど有意義な時間の使い方だし、実際、霊的な認識能力も向上する。

 

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これは冗談ではなく本当で、プラトンも、「幾何学のできない者には哲学の門をくぐるのを禁ずる」とアカデミーの入口に示していたそうだ。幾何学の思考は純粋理性の領域で、直観的な比例の認識能力や、論理的思考力を鍛えるよい訓練になるのだろう。幾何学の法則に従って規律を持って整えられた思考力は、一貫した人間性を生み出すのに役立つだろう。それは、「はじき」や「フレームワーク」をはじめとする抽象的で無意味で気ままでいい加減で無責任な思考が生み出す不埒でだらしなく、気まぐれでその場まかせの発言しかしないようなダメな人間性とは一線を画す。

 

 幾何学を学び、読書をしよう。それは、小学生から老人まで、人間が一生続けられる魂の訓練である。幾何学をする機会がなければ、将棋とかポケモンとか、そういった論理的思考力を必要とするゲームを嗜むといい。そこに読書も加われば完璧である。そういった純粋思考や、あるいは読書を通して育む実践的な思考を培ってきた人間は、決して愚かなフレームワークに近寄ったりはしないだろう。彼は論理的現実的にそれでいて想像力豊かなアイデアに囲まれながら、現実の問題に対処するのである。

マウントを取りたがる人はまず仕事をしてない

 当たり前だが、マウント行為を仕事とは言わない。にも関わらず、部下やら後輩やら、学校であれば生徒やらといった、自分に逆らえない立場の相手に対してマウントを取って、何か立派なことをしたと思い込む残念なリーマンや教師というのは多い。だが、マウント行為というのは、別にそれだけで経済的な価値のあるものを生み出してる訳ではない。モノを作っている訳でも、サービスしてる訳でもない。むしろ部下や後輩に、サービスさせてると言っていいだろう。要するに、何も仕事をしてないという訳だ。無職や生活保護がやたらと役所や病院で偉そうで、店員にマウントを取りたがるのも似たようなものだ。

 

 マウントを取りたい人というのは、多分、仕事がない、できないのだろう。以前、とある芸人が闇営業で表舞台から消えたが、この芸人について、テレビで見るたびに僕が思っていたのは、「こいつは芸人なのに何一つ面白いことを言わない、それなのにやたらと他の芸人を貶したり見下したり、マウントを取るのには必死だ」というものだ。要するに、芸人としての仕事を何もしていないのだ。その癖プライドは高く、自分がイジられそうになると激昂し、必死に面白いことを言おうとしてる人間を嘲り、話してる途中で遮る、最低の人物という印象だった。面白くないならせめて、後輩に優しいとか、他人の良さを引っ張りだすとかそんなところがあっても良さそうだが、そういったことが一切ない、ただひたすらに見ていて不快なだけの人物だった。こんな小物でも、何かの偶然で大御所にも近いポジションにふんぞりかえることができるとは、芸能界とは異常者の世界かと思ったものだ。だがやはり、積み上げてきた徳がない分、消える時はあっさり消えた。そして誰も、二度と戻ってきて欲しいとは思っていないようだった。

 

 その芸人のがyoutuberとコラボして、焼肉屋を開くという企画の動画を見たことがあるが、その内容もひどいものであった。自分の店であるのに、他人事のようにただ出された肉を「うんまっ」とか言ってるだけで、一切自分の考えというかアイデアを言わない。要するに、ここでも何も仕事をしていないということだ。彼が芸能界にいる時にずっとやってきたことは「マウント行為」であって、芸人としての仕事は何もやってこなかった。村社会が平和に続けばそうしたマウント行為を続けることで繁栄できる人もいるかも知れないが、このグローバル化・多様性が謳われる今の時代に、マウント行為だけに磨きをかけて村社会だけで姑息に生き残ろうとするのは自殺行為だろう。勉強をしなきゃいけない。芸人なら笑いの、焼き肉屋なら肉の味やら牛の育て方やら飲食店の経営方法やら、読むべき本がいくらでもあるだろう。他人にマウントを取りたいなら読書くらいするべきだ。まあ不思議なことに、人は本を読めば読むほど謙虚になるのだが。本を読むということはそれだけで、人間としての責務を立派に果たしてることになる。つまり、仕事してるということだ。きっちり自分の仕事ができていると、自分で自分を認められるようになる。そうすると、他人にいらないマウントをとってちっぽけな承認欲求を満たすために陰湿な行為をする必要もなくなる。要するに、仕事をすればいいというだけだ。

 

 だが、日本の労働生産性を見ると、日本人は職場には長くいてもまるで仕事をしていないことが分かる。仕事をしないから、自分で自分を認めることができなくなる。自分で自分を認められないから、他人に認めさせようと、マウントを取ったり下らない仕事を押し付けたりするようになる。仕事してない癖に、他人には仕事してると思われたい人間がするのが、マウント行為なのである。マウントの取り合いが仕事になるのは猿の世界だけである。つまり日本人の多くはお猿さん🐒なのである。

 

 

「ストア哲学」〜対毒親の最強兵器〜

 毒親育ちというのは所謂発達扱いみたいなのを受けて、職場や学校でパワハラやいじめのターゲットにされたり、舐められたりすることが多い。結婚できない人も多く、スクールカーストでは所謂「下位」属することも多い。まあシンプルに言うと、毒親に惨めな人生を強要されて、そこから抜け出せなくなっている所謂「詰んだ」状態である人も多いだろう。

 

 だが、この苦しい状況も、その原因となってる毒親もろとも、一瞬で消し去る素晴らしい方法がある。それが、ストア哲学を学ぶことだ。ストア哲学のもっとも基本の教えは「自然に従って生きる」ことである。過度の承認欲求を自分に許しどこまでもそれらから得られる快楽を求めるようになった歪な魂を持ってしまった毒親からすると、許し難い思想なのである。

 

 ストア派の代表的な哲学者セネカの言葉に、次のものがある。

 

「自分を幸福だと思えない人間は、幸福ではない」

 

「幸福な人生は、徳なしにはありえない。快楽は、幸福な人生に必要ではない」

 

 これらの言葉の意味に繰り返し集中して沈潜することで、毒親の呪いというのは自然に解けていく。何故なら、毒親とは承認欲求という快楽を求めて自ら不幸になる存在であり、それゆえ自分を決して幸福とは考えないからである。そしてそんな、道徳心の欠如した生き方は、それ自体で不幸だ。たとえ毒親が、何らかの偶然で、世間からの多大な賞賛を集めることがあっても、(もっとも、毒親というのは子供を通してそれらを得ることを日々楽しみに生きているので、彼らが集めるという言い方はおかしいかも知れないが)、株やギャンブルで成功して大金を得ることがあっても、決して幸福になることはない。何故なら彼らは道徳を欠いているからだ。高潔な精神、敬虔な信仰心、親切さ、信念、賢慮、謙虚さ…そういった様々な徳から自分を遠ざけ、自ら進んで不幸になりたがるのが毒親という生き物だ。彼らは常に、他人を羨ましがることしか知らない。職場で、ママ友の集まりで、親戚の集まりで、世間の中で、自分がチヤホヤされないなんてことはありえないと、常に呆然自失している。チヤホヤされるために何か特別な技能でも磨いていたり、絵や文章の訓練を日々してるという訳でもない。彼等は自らの感情を垂れ流すことを恥とも思わず、ただ不機嫌に大きな物音を立てたり、子供に過剰に干渉することで、いつかは自分が職場や世間から、あるいは最も気持ち悪いことだが、子供の人間関係から、自分が素晴らしい賞賛を浴びる日がくるのだということを、信じて疑わない。別に、彼等が、とりわけ熱心に、敬虔に、子育てに取り組んだという訳でもない。ただその場その場での快楽であったり、世間体を気にした承認欲求であったりに従って繁殖活動の延長を続けているに過ぎない。たかが子供を産んだ程度で自分を特別な人間だと思っているなら、勘違いも甚だしい。そんな人間が、職場で周りに負担を押し付ける逆マタハラぶら下がりワーママになるのだろう。彼女らは家庭でも職場でも、自分の承認欲求のために他人に負担を強いるのだ。

 

 子供を産んだなら、その幸福は自分が子供を産んだという事実そのものに依存するべきで、産んだ子供や、増してや子供の人間関係を通して、自分が何か利益を得ようなどと恥ずべき考えを持つべきじゃない。ところが、毒親に限った話ではないが、快楽こそこの世で最も価値のあるもので、幸福な人生とはもっとも多くの快楽を味わったものであるとする考えが、日本でもどこでも、退廃した国ではお盛んである。従って、毒親についても同様、少なくとも自分は、自分の子供よりは沢山の快楽を味わったと思って人生を終えたいのである。まったく、快楽のために子供に嫉妬するとは情けないにもほどがある。それはちょうど、大学のサークルのOBである社会人が、迷惑がられてるのも知らずにサークルに頻繁に顔を出してうざがられるのと同じである。社会人には社会人のするべき活動がある。大学のサークル活動は、もうOBとなったら何も関係ないのである。

 

 人は親になったら、自分の子供時代を再体験できると勘違いし、それが子育ての醍醐味と考える人も多いが、それは愚かなことだ。子育ては自分の人生の再確認ではあっても、決して再体験ではない。子供を通して学ぶことはあっていいが、子供を通して快楽を得ようとするならば、そんな人は親になどならないほうがよかった。全て幸福は、徳のあるところに生じる。子育てが幸福となるのは、親がそこに徳を注ぎ込んでる限りにおいてである。子供を通して快楽を得ようとするならば、たとえそれが得られようと、既に親は幸福ではなく、充分に惨めな存在なのである。

 

 ストア哲学を学ぶことは、このような頭のイカれた毒親の呪いを解くのに、この上なく有用である。毒親イカれた考えを毎日聞かされていると、快楽に何か価値があるという、歪んだ人生観を植え付けられることになる。まずはそれを解除する必要がある。そのような考えに囚われていると、毒親と同等のレベルの承認欲求や性欲や名誉欲に囚われて、無限に不幸になってしまう。毒親の呪いを解く最初の一歩は、まずは自分で自分が幸福だと思うということと、徳なしに幸福にはなりえないということを知ることである。毒親は、子供が恋愛や金銭面で不自由を感じることがあると、優越感による快楽を得ることに成功する。だが決して、そんな価値観に張り合ってはならない。恋愛にしても金銭面にしても、不自由することは徳とは何ら関わり合いがない。つまり、幸福とは何ら関わり合いがないということだ。親が子供の不幸を喜んでいても、自分を不幸だと感じる必要はない。そうであることができれば、親であれば我を失うような幸運や順境に恵まれることがあっても、自分を見失うようなことはない。幸福とは、順境にあっても逆境にあっても、自分らしくいれること、自分の信念に従うことができることなのである。だから、常に自分の外の世界をキョロキョロして、職場でも家庭でも他人に嫉妬してばかりいるような毒親が、幸福になることなどできないのである。

 

 毒親は絶えず自分を不幸だと喚き、大きな声を立て、大きな物音を立て、テレビの言葉を神の啓示のごとく有り難がり、職場でもママ友の集まりでも承認欲求と自意識過剰のためにいらない気苦労とストレスを抱え込み、常にそわそわして落ち着きがなく、執着心は強くそのくせ飽きっぽい。絶えず彼等は欲求不満で、絶えずないものねだりをしている。だが、彼等は望むもの全てを与えたところで、さらにもっと欲しがるだけだろう。あの人は私より金持ちだ。あの人は私より皆にチヤホヤされている。あの人は私よりいい思いをしている。あの人は私より沢山の異性に囲まれる。などなど…。

 

 彼等の欲望は、限度を知らないので決して満たされることはない。自然に従うことも、徳を目標として生きることもできない。ただひたすらに、承認欲求の充足という死海の林檎を求めて、永久に彷徨い歩くゾンビなのである。

 

 

仕事しない癖に人を過労死させるのが日本人

 職場で少し周りを見渡してみると、これがまあ仕事しない人間で溢れている。下らない旅行やら家族やらの話をしながらお菓子を頬張り醜い笑顔で楽しそうにお喋りしてるぶら下がりワーママとか、思いつきのどうでもいい仕事をいかにして部下に押し付けるかと虎視眈々と考えながらネットサーフィンしてるハゲたおっさんとか、パワーポイントで一銭の利益にもならないグラフやら表を作成するために必死の形相でお絵描きして遊んでる暇人とか、必要もないプレゼンの準備に血眼で勤しんでる人とか、下らないその場の個人の感想を互いに垂れ流し合うだけの不毛な会議をしてる不要な人達で、日本の大半の職場は成り立っている。働きバチの原理で、別に75%は適当に働いてるか全く働いてないかというのは自然の摂理なのだが、問題はこのロクに働かない75%が大人しくせずに、自らの承認欲求のために25%の一生懸命働く人たちにどうでもいい仕事を次から次へと押し付けることにある。自分達は仕事もせずに遊んでいるだけなのだが、だからといって真面目に仕事してる人が評価されるのは面白くない。何か下らない仕事を思いついて、それを25%の一生懸命働く人たちに押し付けることで働かなくてもマウントが取れるようになるのだ。中抜きなんかもこのタイプである。盗人猛々しいという言葉の由来はここにある。ぶら下がりワーママの大半が自分は何か人間一般の本質を見抜く能力がある特別な人間だと考えてさっさと帰って独身に仕事を押し付けるのと同じように、働かない人間は次から次へと下らないことを考えついて真面目に働く人の邪魔をする。丁度コンビニのレジで低賃金で忙しくこき使われている人達にさらに余計な手間を増やした、小泉進次郎環境大臣のように。

 

 日本の経済成長が停滞してるのも、労働生産性が低いのも理由はシンプルで、単に働かない人が多いというだけの話だ。過労死する人達は、働かない人達の承認欲求のために下らない仕事で使い潰されて殺される。過労死も過労自殺も、全て他殺なのである。承認欲求というのは人を無限に残忍にする。下らない余計な仕事を考えつく暇なおっさんというのは、チヤホヤされたくてチヤホヤされたくて仕方ない。でもそのために自分の頭や手足を働かせることはおっくうだから、自分に逆らえない相手や職場で立場の弱い相手を見つけては狙い撃ちにして適当な思いつきを押し付けて悦に浸る。

 

 思いつきをぶちまけるというのは気持ちのいいものだ。僕もこのブログに好きなことを書いていると気持ちがいい。でもそれが許されるのは、これがブログで閲覧は読者の選択肢に委ねられるからだ。職場はブログではない。自分の下らない思いつきを押し付けるのは思想の強要という憲法違反である。もっとも、働かない人間の大半は自分を天皇のように特別な存在だと思ってるので、今日も自分の部下や後輩など、自分に逆らえない相手を見つけては、承認欲求を満たすために「思いつき」というボケ老人の排泄物をぶちまけるのだ。

 

ポケットに手を入れて歩く人が仕事できない理由

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↑電車の車内広告は全てこれにするべき

ポケットに手を入れてホームや階段を歩く奴は病気

 

 駅のホームや階段など、大勢の人が行き来するにも関わらずそういった場でかっこつけたいのか何なのか、ポケットに手を入れて歩く知的障害者といのは昨今本当に増えた気がする。少し見ただけでも、歩きスマホより遥かにその数が多い。

 

「ポケットに手を入れて何が悪い!僕はかっこよく歩きたいんだ!誰にも迷惑かけてないんだから文句言うな!」

 

 等と反論する馬鹿がいるかも知れないが、大いに迷惑なのである。駅のホームや階段から転落する危険性が格段に上がるし、何より体のバランスを崩した時に腕でそれを取り戻すことができない。そして、バランスを崩して転落する時に自分だけ落ちるならまだしも、こういう連中は他人を巻き込むのである。つまり人殺しだ。人殺しが迷惑じゃない理由をいちいち説明しないとダメだろうか?多分、こういった人達は、ホームや階段から転落しそうになっても、誰かにもたれかかればいい。誰かを道連れにすればいい。誰かが何とかしてくれると、そう考えているのだろう。そしてそれは、仕事においても同じなのである。

 

 歩きスマホをする人も、ポケットに手を入れて歩く人も、他者や物事について想像する力を持たず、常に「誰かが何とかしてくれる」「面倒が起これば他人に押し付ければいい」と考えているのである。そんな人間が仕事ができるはずもなく、やがて周囲から見放されて追放されるか失業するのがオチである。そもそも公共の場で平然とポケットに手を突っ込んで歩くのは、危機意識があまりにも低く、ボーッとして何も考えずに生きている証である。生きている証と言ったが、そんな人間は死んでるのと同じである。ゾンビですら手をポケットに入れて歩いたりしないから、ゾンビ以下なのである。

 

 ただでさえスタイルが悪い小汚い格好をしたおっさんや若者が、みっともなくポケットに手を突っ込んで人混みを偉そうにふんぞり返って歩いている。彼等は沢山の人に避けられているが、その瞬間に「自分は優れた人間だから他の人に避けて優先的に心地よく歩かせて貰っている」と錯覚するのだろう。だがそれは、異常者で危険人物だと思われて避けられているだけなのである。このように、他人に呆れられているだけなのに、自分が感心されていると勘違いする人間というのは尽きない。会社で下らない用事を思いついて部下にそれを呆れられているのを、素晴らしいアイデアを思いついて部下に感心されていると勘違いしている哀れなおっさんがそこかしこに溢れているのと同じである。トナラーやクチャラーをはじめとする迷惑行為の加害者も、自分をお姫様か何かだと信じて疑っていない。自分本意で周囲への配慮が一切ないという意味では、わがままなお姫様だ。もっとも彼等は、とても醜いという違いがあるが。