徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

アウトプットなんて気持ち悪い言葉誰が使いはじめたのだろう

 「イんプットだけじゃダなんですよ、アうトプットがなぁいとぬうぇぇぇぇ!」なんて言葉を中学の英語教師が言ったのを強く覚えている。内容としては、「英語を勉強するのに、教科書を読んだり単語を暗記したりするだけでは駄目で、実際に英文を書いたり話したりしないと英語力が伸びない」とでも言いたかったのだろうか。それならそうと説明すればいいのに、何故にアウトプットなどという気持ち悪い言葉を使うのだろう。インプットは何だがかっこいい頭のいい人がやるイメージだが、アウトプットという言葉は語感も悪く意識の高そうな響きが含まれていて、どうにも気持ち悪い。エクスプットとかなんとか、もっと格好いい言葉はなかったのだろうか。

 

 要するにトライアルアンドエラー、試行錯誤の過程の一つを意識を高くして言っただけで、別段深い意味合いがある訳ではない。にも関わらず、別に英語に限った話ではないが、巷の意識高い系はこの言葉を好んで使いたがる。せめて、「表現」とか「描写」とか「出力」とか、もうすこししっくりくる言葉を使って欲しい。

 

 第一、英語の「output」の第一の意味は「産出、生産高」であり、「試行錯誤」の意味合いは薄いのである。インプットの対義語としてのアウトプットは和製英語と言っていい。それも、意識が高く捻じ曲げられた歪な和製英語である。

 

 そもそも「アウトプット」なんてのは意識して行うものでもない。質のいい経験や知識を積み重ねていれば、良い植物の種がいい実を結ぶように、自ずと世界に対する働きかけとして何らかの表現を行うように、人間はできている。多様な人生経験を積めば、ブログや芸術といった形でそれを表現したり、世に発信したりするものだ。自然と。それを「アウトプット💦アウトプット💦」なんて必死な顔をしてる人間は、ないものを絞り出して錬金しようとしてるみたいで、すごく無理があるというか、おかしな顔をしている。

 

 だから「アウトプット」という言葉は、教育現場では使用禁止にすべきである。「創造」とか「試行」とかに言い換えた方がいい。「アウトプット」という言葉には強いるような響きがあり、本来は自由である筈の人間の魂を型にハメようとする搾取的・洗脳的な響きがある。「アウトプットしなきゃ」という言葉は相手を緊張させ、逆に相手の自由な表現を奪い、想像力を硬直させてしまう。言ってみれば、発言者が何も創造せずに聞き手にマウントを取るための詭弁なのである。

 

 アウトプットという言葉を使ってはならない。意識してもならない。意識するのは、質のいいインプットだけでいい。小説を読む時、人は小説を書いているのと同じである。音楽を聴く時、人は偉大な作曲家になっているのである。インプットという行為はそのまま、霊的に見れば偉大な創造行為であり、それが更に発展することで、実際に芸術作品となって世の中に働きかけたりする。

 

 「アウトプット」という言葉は表現が質のいいインプットの延長上にあるということを忘れさせる、悪魔の言葉である。こんな言葉は教育現場から一切が駆逐されねばならない。

 

 

 

コロナを怖がる田舎者、そんな真剣に生きてるの?

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新型コロナウイルスの感染者に対する差別が、未だに至るところで横行しているらしい。ひどいケースになると、感染者を人殺しと罵るような差別もあるそうだ。ブラック企業で従業員を過労自殺させたり、パワハラで部下を自殺に追い込むような人達が「人格者」と崇められるこの日本では、ただの風邪にかかっただけの善人が「人殺し」と罵られる。相変わらず狂った世界である。

 

 そもそも日本人はネアンデルタール人の遺伝子を持っていないので、新型コロナウイルスに感染した所で重症化しにくい。死亡のリスクがあるのはもともと加齢や基礎疾患で免疫力が落ちている人達で、そんな人達はコロナウイルスがなかった所で、別の理由で死んでいるだろう。

 

 そもそもただの風邪に過ぎない新型コロナウイルスを過大に怖がる時点で、その人は相当な暇人で基礎的な医学のリテラシーも知識もなく、低学歴でロクに本も読まずにテレビから得た知識で日々勉強してると思い込むんでる低脳であることは疑いようもない。そんな輩こそコロナウイルスに罹ってくたばればよいのだが、残念ながらそんな連中ほどゴキブリのようにしぶとく生存権を主張し、周りに迷惑をかけて安寧に包まれた人生を送るのだ。

 

 「仕事が生きがい」「仕事のために生きてる」とか散々のたまってる癖に、新型コロナウイルス如きが怖くて会社を休みにしたりテレワークにしたりする人達も、怠慢の極みである。そんなに仕事が好きならコロナウイルスと心中しろといいたい。仕事が生きがいならコロナで仕事できなくなったら死ねばいい。だのに、のうのうと休みを貪り、おうちにいる自分は命を守って立派だと本気で思い込んでいる。

 

 何度も…何度も何度も何度も言うが、コロナウイルスは「だだの風邪」である。ただの風邪を、バイオハザードなんかの映画に感化されたパニック妄想好きの退屈な人々が騒ぎ立てているだけである。非日常が好き、妄想が好き、だけど創造的なことはしたくないから、手取り早くコロナウイルスを人類最大の脅威であるかのような悪者に仕立てあげて、みんなで立ち向かうことに一体感を感じたいだけである。まるで小学生である。パニック映画を見て寝る前に布団の中でもし大地震が起きたらとかパンデミックが起きたらとか想像している小学生である。

 

 マスクをして皆で一体感を感じて、気休めにもならない仕切りやアルコールの無駄遣いで余計な手間を増やし、非日常を楽しんでいる。ひどいのになるとコロナ禍の記念館まで作ろうとしているらしい。子孫に嘲笑されるだろう。ただの風邪に、子供のように騒ぎ立て、過剰な対策を取り、問題の本質を軽視し、いつまでも夢の中で遊んでいる哀れな日本人として。

 

 そもそもの労働に対する価値観がおかしいのである。仕事が生きがい?仕事を通して成長する?否。労働に生きがいを感じるのは価値観を他者に委ねた自立心のない甘えん坊だけである。コロナに過剰に騒ぎ立てるのも甘えん坊である。自分の人生を自分で楽しませることができない怠惰な大人が、コロナをドラマチックに騒ぎ立て、自分の虚しさを埋めているのである。

 

 コロナから自由になるための方法はたった一つで、それは人々が精神を自立させることである。自分の人生を自分で充実させる術を学べば、コロナウイルスなんぞに慌てふためく必要性はないのである。田舎者は常に暇で他人の噂話が生きがいであるから、コロナの感染者を叩く時に、素晴らしくかっこいい天誅を下す正義の味方にでもなったつもりになるのだろう。その行為がそのまま田舎者の低劣さの現れであり、その低劣さは、たとえコロナが終息した所で、彼らの品性を落とし続けるだろう。

 

 

コロナウイルスとネアンデルタール人、そしてアトランティス

news.yahoo.co.jp

 コロナウイルス重症化のファクターに、「ネアンデルタール人の遺伝子」が関与しているらしい。そしてオカルト界隈では、ネアンデルタール人は我々が学校で教わった知識とはかけ離れて、高度な知性と文明を持っていたというのは半ば定説として定着しつつある。

 

 ネアンデルタール人について一般的な知識をおさらいしておこう。パッと説明できる人は相当に学校の授業を熱心に聞いていて偉い。

 

ネアンデルタール人(ネアンデルタールじん、学名Homo neanderthalensis〈※後述〉、: Neanderthal(s): Neandertaler)とは、化石人類の一つ。ヒト属の一種で、約40万年前に出現し、2万数千年前に絶滅したとみられる。ただし、新しい学説(2014年発表)は約4万年前に絶滅したとする[3]ja.wikipedia.org

 

 南イタリアで化石が見つかったり、インドにはその遺伝子を引き継いでる人が多いそうだ。人口は多い時で2万人が上限だったといい、数万年前に絶滅したらしい。絶滅はしたものの、ホモ・サピエンスと繁殖してその血の影響を残していると言えよう。

 以前にこのブログで、「新型コロナウイルスは虐げられた者たちの怨霊」と表現したことがあるが、現代社会もおける「虐げられた者たち」というと、資本主義社会の中で、強欲な資本家や政治家、権力者に搾取される人達…より身近な表現をするならば、ブラック企業で過労死・過労自殺寸前まで追い詰められてる人達、いじめに遭って自殺したいと考えている人達、「パリピ」至上主義のもとで、「陰キャ」や「発達障害」などと誹謗中傷を受けている人達がそれに当たると思う。そして、そんな人達の集合的無意識が、資本主義に対するカウンター装置としての、新型コロナウイルスを生み出したのではないだろうか。実際、コロナの蔓延により、そんな「虐げられた人達」が苦手な、大勢で集まってワイワイするイベントや、大型スポーツイベント、大量消費するイベントなんかは、大きく息を潜めるようになった。

 

 ではそんな、「虐げられた人達」の集合意識が生み出した新型コロナウイルスが、ネアンデルタール人の遺伝子を持つ人達を重症化させるとはいったい、どういう仕組みというか、理屈から来ているのだろうか?

 

 アトランティス破局する時、すでに国家として腐敗し、現在の資本主義のような形で強者が弱者を虐げ、様々な形でエネルギーが中央集権的に集約し、一方的なエネルギーの流れが生み出す歪さによって地球の均衡が崩れ、一夜にして海の底に沈んだという(利己的な人々の破壊的な想念が神の怒りを買ったという表現と何の矛盾もない)。それがおよそ今から1万2000年前のことだ(この時期はプラトンの『クリティアス』に記載がある。プラトンの師ソロンが、エジプトの神官から聞いたものだそうだ。ちなみに沈没を逃れた一部のアトランティス人は、エジプトに逃れ、科学は魔術つまり錬金術エジプト人たちに教え、ピラミッドの建設を指揮したという)。

 

 資本主義による富(エネルギー)の偏りが現代の世界を歪ませ、人々の心を荒廃させているという状況は、アトランティス破局の時期に近いものがあるかも知れない。もしもネアンデルタール人破局を免れたアトランティス人の末裔なら、その遺伝子は、資本主義へのカウンターとして発生した新型コロナウイルスに対して、脆弱なものとなってしまうのかも知れない(患者に責任がある訳ではないが、カルマは時に個人の事情を超えて大きく作用する)。

 

 とはいえ、この理論のは些か飛躍もあり、もしもアトランティス的なものに対して新型コロナウイルスが強毒的に作用するならば、社会的にその風潮を強く持つ中国人や日本人に対して強く作用してもおかしくない。しかし東アジアの人々はネアンデルタール人の遺伝子はない。よって重症化しにくい。などなど、疑問点は尽きない。

 

 それとも、ネアンデルタール人の遺伝子を持つ人達には、救いとしての「死」がもたらされ、コロナウイルスにより、霊界のかつての仲間のもとへ還ることができているのかも知れない。そういった意味でも、やはりコロナウイルスは悪いものではなくなる。

 

 どれも仮説に過ぎないが、「コロナウルス」と「ネアンデルタール人」そして「アトランティス」というキーワードを多くの人に探究心と想像力を掻き立てるのではないだろうか?まだまだ考察の余地がありそうで面白い。いかに参考になりそうな書籍をいくつか紹介する。

 

 

神秘学概論 (ちくま学芸文庫)
 

 

 

 

やることない人は夢の世界で楽しく遊ぼう

f:id:potemalu02:20200410215657j:plain夢の世界ってこんな感じかな?


 一時期ニートだったことがあり、その時は時間潰しに苦労したものだが、現実の方が退屈になると毎晩見る夢の中の方がエキサイティングになってくるから不思議なものだ。


 ブラック企業の中の悪い人間関係など、昼間が劣悪な環境だと夢の中まで陰湿だったり荒廃した風景になる。対して昼間何もしなかったり呑気に過ごしていると、不思議と面白い夢を見る。過去に親しかった人が出てきて懐かしい気持ちになったり、あり得ないような冒険をする夢だ。


 例えば今朝僕が見た夢は、牛や豚などの動物が人間を逆に家畜のように支配するという世界の夢だった。そして動物のボス格に「もののけ姫」に出てくるオッコトヌシのような奴がいて、巨大な牙で遅いかかってくるのだ。そんなコンセプトの漫画があったような気がする。そんな夢を見た翌朝はスリル満点の映画をみたような気分になって中々清々しいものだ。劣悪な環境で働いてる時はなかなかこんな夢を見ないものだ。きっと、静寂な環境に置かれることで想像力が発揮されているのだろう。これもコロナウイルスの素晴らしい効用だ。金もかからないし、精神衛生上も素晴らしい。


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 沢山の人とはしゃいで神経をすり減らした日というのは、あまりいい夢を見ないものだ。潜在意識下で、嫉妬や悪意みたいなものがあったりして、心から休めないのかも知れない。だから今見たく人と人が離れている状態でこそ、真の友情というか霊的な交わりというものが出来るのではないだろうか。夢の世界は霊界に近いという。そもそも霊の間に距離は関係ないし、近くにいるほうがかえって心の距離を感じるものだ。


 それに夢の世界だと、物理的には離れていても心は近しい人達と交流できるそうだ。だからよく寝ると気分がリフレッシュされるのだろう。コロナウイルスの自粛要請で暇だという人はとりあえず寝て夢の世界で遊んでみよう。眠くなければ自慰行為をしてみよう。多分すぐ眠くなるし、余計な欲求不満も消えるだろう。


コロナウイルスについての考察

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 コロナウイルスについての考察が巷に溢れる中、スピリチュアル界隈では「人類への警告」とか「新しい時代になるための試練」とか色々言われている(僕が愛読するブログ「itスペシャリストが語る芸術」でも凡そそう言われているhttp://www.kaynotes.com/)。僕も概ねそういった意見に賛成なのだが、少し違った考え方をしていきたい。それを、「コロナウイルスの危機に対する世界の『捉え方』からみる集合意識についての考察」とでも呼ぼうか。


 ぶっちゃけ、そんなに騒ぐほどのものではないのではないだろうか?コロナウイルス。4月5日現在で、死者は世界で6.3万人。日本に至っては、100人も死んでない。死者の殆どは高齢者で、若い人で亡くなってしまったという人は、基礎疾患があったか、免疫状態が著しく落ちてたかのいずれかだろう。インフルエンザで毎年世界で何十万の人が亡くなっていることを考えると、微々たる数字ではないだろうか?僕からすれば、誤差の範囲内である。


 通常のインフルエンザと違って、熱が4〜5日と長引いたり、肺炎は肺の間質という組織で起こり、固くなってしまうそうだ。まあウイルス科が違うのだし、症状が違うことはあるのだろうが、それを加味しても「ただの風邪」といって差し支えないと思う。 


 で、その「ただの風邪」のことを何故こんなに世界中のメディアで大げさに取り上げたり、死者数を連日報道したりと過剰に反応するかと言うと、そうすることで普段活発に働き回ってる人たちが、「休める」からだと思う。要はみんな、資本主義に疲れてきているのではないだろうか?


 おかしいと思わないだろうか?普段あれだけ、働かざるもの食うべからずだの、仕事してれば偉いだの、人は仕事を通して成長するだの、仕事できる男はモテるだの言ってるなら、この程度のウイルスで、みんな会社を休んだり外出を控えたりするはずがない。普段は命より仕事が大事かのような発言を沢山しておきながら、命に大して影響がないウイルスが流行ったくらいで大騒ぎして、大ががりなイベントを控えたり経済活動を控えている。要はこんなウイルスが流行ろうが流行るまいが、みんなパリピ的な働き方や生き方に既に疲弊していて限界だったということだ。そこにコロナウイルスというそれらしい「悪役」が発生してくれたから、表面上は仕事したいフリを装いつつ、仕事を休んだりイベントをキャンセルしてる訳だ。何というか、それに嫌らしさというか卑怯さのようなものを感じてしまうのは、僕がひねくれているからだろうか?


 大勢が集まって騒ぐイベントや、オリンピック甲子園みたいなスポーツイベントにしても、みんな心の奥底で、それらがあまり楽しくないことに気付き始めているんじゃないだろうか?インターネットが発達して、個人個人が自分にあったやり方で楽しむ娯楽というのは沢山ある。大勢で集まるほうがかえってイライラすることが多く、精神が疲弊する。あいつよりいい思いをしたい。あいつより目立ちたい。あの娘の注目は俺のものだ…そんな精神がすり減るような欲望は人が沢山集まるところで起こる。


 だから、コロナウイルスはきっかけに過ぎない。単に大勢で集まってマッチョな精神を持って仕事したりイベントを開催するのが、実はとても疲れることだったというだけだ。それを認めて人間本来の自然な生活に戻り、あまり働かず、個人の時間を大切にして、豊かな精神生活を送っていればそもそも騒ぐような話ではない。そもそもいい年した大人が多少命に関わるようなことで騒ぐのはとてもみっともないことだと思う。


 だから、コロナウイルスを悪者にして、コロナウイルスが怖いから休むんですというのでなく、休みたいから休むんです。と、皆が言うようになればいいのではないかと思う。これは想像たが、そんな世界になれば、重篤化して死ぬ人も少なくなるのではないだろうか。気張ることがないから、免疫力も上がり、ウイルスに対する抵抗力も強く発揮されるだろう。むしろ、いつまでもイキって、本当は仕事したいのに、イベントを開催したいのにコロナウイルスのせいで開催できないんですみたいな嘘をつく人間には、肺炎で死ぬことより恐ろしい未来が待っているかも知れない。


 余談だが、志村けんは死ぬ直前までお酒に入り浸り、女の子を追いかけ回していたらしい。僕もモテないが女の子が大好きなので気持ちはよく分かるが、70にもなったなら家で静かにネットサーフィンしてエロ動画でも探してたらどうだろうと思う。若い僕が性欲に折り合いをつけて生きているのに、70のおじいちゃんが50億円も資産があって、不埒な生活を送るのもいかがなものか。そんな金があるなら、恵まれない動物達のために寄付でもしてれば、もっと心穏やかでいられたろうに。絶滅しそうな動物の保護とか、行き場のない犬猫のシェルターを作るとか…そういった業界では、若い人達が薄給激務でこき使われているという実態を知らないのだろうか。志村けんよりは、晩年になって「別に動物は好きじゃない」といったムツゴロウさんの方が、よほど誠実で、動物が好きな人間に見えるのだ。


 先日このブログで話題にした会社を辞めた管理職の人にしても、無理して仕事熱心なフリをしなくても良かったのではないかと思う。わからないことはわからない。知らないことは知らない。できないことはできないと素直に言っていれば、辞めずに済んだのではないだろうか。その管理職の人はやたら朝早く出勤して、夜遅く帰る人だった。そんな無駄に「気張った」人間を評価する風潮を作った会社にも責任がある。そんな人を「仕事できてステキ」と評価する女の人にも。


 同じく先日このブログで話題にしたカフェでクチャクチャと物音を立ててエンターキーでデカい物音を立てるオッさんにしても、本当に自分がやりたいことをしてないから、あんなみっともない姿を晒しているのだろう。要するに、他者からの承認だけを生き甲斐にしてきた結果、ああなったのだ。それも、何かを作ってその成果物を評価して貰うのではなく、何かを一生懸命やって「そう」な雰囲気。キーボードを叩いて仕事をして「そう」な雰囲気を出すことで、他人に褒めて貰おうとしてきた。そんなエンターキーをバカでかい音でしばくオッさんはみっともないことこの上ないが、人について表面的な評価しか下せなかった彼の周囲の人々にも、その責任があるのではないだろうか。


 自分に出来ないことを認めるのは勇気のいることだ。僕は随分昔に自分はどうやら人とご飯を食べるのが嫌いらしいとリア充的な生き方を諦めて、ぼっちで行動するようになったが、その方がかえって、信頼できる人達との交流が持てるようになったものだ。大勢でワイワイ騒ぐことはなくても、一緒にご飯を食べることはなくても、人と人とは分かり合い、立派な友情を築くことは出来るとことを知った。そしてそんな人達はきっと、自分で自分を認めることができる人達だ。


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 自分の弱さを認められなかった「ナルト」のうちはイタチは、弟を除く自分の一族全員を殺さざるを得ない道を選んでしまう。しかし彼も、自分の弱さを認め、弟のサスケを頼っていれば、あるいは別の道があったかも知れないと後にこぼしている。


 ヴィクトール・E・フランクルの「夜と霧」では、収容所で毎日自分の存在意義が否定されるような酷い仕打ちを受けた人が、自分で自分を鼓舞し、自分自身で意味を見出すよう努力する様が記録されている。


夜と霧 新版

夜と霧 新版

 収容所の看守が認めてくれるだろうか?許してくれるだろうか?希望を与えてくれるだろうか?いや、ない。


 そんな絶望しかない状況でも自分を見失わなかった人達は、自分の中に拠り所をもっていた。そしてきっとそれは、他者に依存した、いわば甘えた心でなく、真の自立心から生まれるものだったのだろう。


 長時間労働をして他人に評価して貰おうとしたり、大勢で集まってイベントに楽しませて貰おうとしたり、東京オリンピックみたいなイベントを開催して若い人に楽しませて貰おうとしたりする心の背景にあるのは、自分で自分に価値を見出そうとせず他人になんとかして貰おうとする甘えた依存心なのである。自分に出来ないことを認めず、見栄を張り、既存の価値観に自分を当てはめるように生きていく。そんな生き方は、これからの時代に価値を持たないだろう。


 今回のコロナウイルス騒動にしても、コロナを言い訳に集団に埋没するような態度をとる人間は同じく、これからの時代に自分の生き方に価値を見出せず、滅ぶことになるだろう。滅ぶというのは、別に死ぬという意味ではないが、もしかしたら死ぬよりもっと酷いことになるかも知れない。言うなれば、霊的な死である。霊界では、物質界のような抵抗がないから、自我を保つのが難しい。現世(物質界)にいる間にアイデンティティを他人に依存していたような人達は、死後に自我が保てず、魂が離散することになるだろう。別に消えてなくなることはないだろうか、もし次の時代があるなら、多分劣悪な星に転生することになるかも知れない。別に大きな目で見れば善も悪もないだろうが、より繊細で霊妙な芸術を味わえる力がないので、粗野な世界に行くということだろう。


 自分の中の想像力を大切にしなくてはいけない。そのためには、自分の感性を大事にすることだ。何を美しいと感じ、何に醜さを感じるのか。何を高貴さを感じ、何に劣悪さを感じるのか。他人に振り回され、他人の評判ばかり気にしているとそれが見えなくなる。幸いコロナウイルスは人が自分にいつてじっくり考え、見つめ直す時間を与えてくれているし、世界の人々の潜在意識もそれを望んでいる。霊学を通してあるいは芸術を通して、自己認識を深めていくことが出来るだろう。



カフェで謎のデカい物音を立てるオッさんの心理

 カフェでクチャクチャと口を開けて物を食っていたオッさんが、今度はゴトゴトと大きな物音を立ててパソコンと充電器を取り出して、クソうるさいクリック音とエンターキーをしばく音を響かせながら、難しい顔をしてパソコンと向き合っている。さぞやか難解な課題をこなしている…ABC予想の検証でもしているのだろうかとパソコンを背後から自然な動きを装って覗き込んでみると、何やらエクセルのセルに○とか×とかを書き込んでいる。何だこりゃ、アンケートか?少なかとも何か長文を書いてる訳でもなく、難しい論文を読み込んでいる訳でもない。だのにどうして「カチカチッッタァーーーーーーンッッ」とデカい物音を立ててパソコンをいじる必要があるのだろう?


 会社でもやたら難しい顔をしてキーボードをやたらデカい音で叩く仕事してないオッさんがいるが、彼等の胸中は何だろう?あれだろう、多分、モテたいんだろう。カフェとかで難しい顔をしてパソコンをいじってれば、その姿を見てかっこいいと思った10代〜20代の美少女が、「まあ!あんなに真剣にパソコンをいじってるなんてかっこいい!おじさま!抱いて下さい!」とかそんなシチュエーションがあると本気で思い込んでいるのだろう。政治家とか教師とか、警察官にもそんな人間は多い。そしてそんな人間はしばしば捕まっている。まあ当然だろう。


 モテたいならもっと静かに技能を磨いて、アンケートに答えるんじゃなく何か文章でも書いてみたり、絵でも描いてみたらどうだろう。少なくとも僕は、モテたいからってデカい音でキーボードをしばくような真似はしない。キーボードが可哀想だし、壊れたらいちいち買い換えるのがめんどくさい。何より手が痛い。一度そんなオッサン達の真似をしよと思って思いっきり強くキーボードを叩いてみたことがあるが、なかなかどうして、真似しようと思っても出せる音ではない。マトモな人間なら、タッチの直前に指は減速する。キーボードが可哀想だと思わないのだろうか?キーボードに親でも殺されたのだろうか?無抵抗のキーボードを叩いてまで女の子にモテたいのだろうかオッさん達は?恥ずかしくないのだろうか?キーボードに対する虐待である。


 しかも先述のカフェのオッさんは、食べ物を食い終わってるにも関わらず突然クチャクチャと口を動かし謎のキモい物音を立てる。クチャラーは物を食ってなくてもクチャラーなのだろう。見上げた立派なクチャラー精神だ死ね。


 クチャクチャと物音を立ててパンを食い散らかし、ゴトゴトと音を響かせて充電器をカフェのテーブルの上で引きずり回し、マウスやキーボードをしばくこのオッさんは、どれだけ音で世界を破壊すれば気が済むのだろうか?モテたいのだろうか?風俗行けばいいやろ?射精すれば落ち着くぞ?僕もブログの収益が出てお金に余裕が出来たら風俗に行こうと思ってる。でも、クソデカい物音を立ててモテようとするオッさん達より余程まともじゃないだろうか?オッさん達は無能の癖にら自分を評価しろ、美少女を俺にあてがえと喚いている。だからキーボードをいじめて平気なのだろう。


 モテたいからってキーボードを虐待するのは男として恥ずかしいことだ。美少女に優しくされたかったら、まずは自分が目の前のキーボードに優しくすることから始めければならない。


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仕事が「デキる」「デキない」という謎の基準

 「あの人は仕事できるからね〜」と言われてた管理職が突然、会社をやめた。何でもその人が抱えていたプロジェクトが欠陥だらけだったらしく、責任を追及してたらやめてしまったとのことだ。その管理職は見た目はイカついガテン系のオッさんで、声もデカく、ドスの効いた喋り方をするので、仕事がデキると思われていたのだろうか。世に言われる仕事がデキるデキないという評価は多分、見た目とか雰囲気で決まるんだろう。見た目がオタクっぽかったり陰キャラだったりすると、「仕事がデキない」のレッテルを貼られ、その逆なら「仕事がデキる」と評価される。「仕事がデキる」人達は上手い具合に陰キャラ社員に面倒なことを押し付けたり責任逃れしたりして昇進していく。僕の会社の辞めた管理職の人はそこをミスったのだろう。


 そもそも小説家を目指す僕にしてみたら長文を書けない人は仕事ができない人だし、読書しない人は仕事ができない癖に努力もしてない人だ。そういう目で見たら世の中のあらゆる人が、僕にとっては仕事が出来ない。だのに、会社内で大声を出してたり、スポーツ経験者だったり、責任逃れが上手いと、「仕事がデキる」と言われるから不思議だ。


 そもそも仕事って、生きるためにする最小限のことでいいのに、それが「デキる」って余計なことをしてるだけじゃないだろうか?生きるために最低限必要なことに関しては、「する」か「しない」かって話になる。それが「デキる」「デキない」の話になるのは呑気な証拠だろう。多分職場を、演劇場か何かと勘違いしているのだろう。特に女性の社会進出によってこの風潮が強まったような気がする。無能なのにイカついだけの男とか、家庭持ちの男、声がデカい男が仕事が出来るとされ、大人しいがしっかり仕事をこなすタイプの男は「キモい」と罵られ評価されないようになったのではないだろうか。そして女は「仕事がデキる男はモテる」という謎の理論を語るが、その実はイカついDQNみたいな自分好みの男を仕事が出来ると仕立てあげてるだけだ。だから日本の技術職は衰退したんじゃないかと思う。無能だけどイケてる振る舞いをする人間ばかり重宝してきた結果、中身が伴わなくなってしまった。


 先にあげた管理職も、女性の評判は概ね悪くなかったが、オタクっぽい男性社員への当たりのキツさは異様なほどであった。僕はそいつの下で働いてた時期もあり、その仕事の杜撰さには常々呆れていたが、指摘・反論でもしようものなら逆ギレの嵐だ。一度その管理職にキレられた時も、僕が悪いという風潮が社内に出来上がっていた。理由は簡単。その管理職は仕事が「デキる」と思われていたからだ。


 まあそんな風に、プロジェクトが欠陥だらけだったと気付かずにその人が「仕事がデキる」とずっと言っていた周囲も悪いので、別にそのオッさん一人の責任ではないと思う。

散々「仕事がデキる」と持ち上げておきながら、会社の損失に繋がるプロジェクトの欠陥が発覚した途端、処分の対象にしたのだから(同情はしない)。


 怖いのは、周囲の人達やそのオッさんを持ち上げてた女性までが、「あの人は極悪人だった」みたいにあっさり掌を返すところだ。男はこういう所はあまりない。志村けんが死んだ途端に死体蹴りをするフェミニストみたく、バッシングの嵐でる。志村けんを叩いているフェミニスト達も、生前は金のある権力者ということでちんぽをしゃぶりたかったんじゃないかと思う。それが死んで「弱者」になった途端に、バッシングの嵐である。女って怖い。そして、「仕事がデキる」なんて評判は、本当にアテにならない。というか、本当に仕事が出来る人といのは、芸術家くらいのものじゃないだろうか。滅多なことで、他人がその真似を出来ないのだから。ところが日本では会社で誰でも出来るような仕事を大げさにこなす声がデカい雰囲気がDQNの人間が仕事がデキるとされる。だから技術職が衰退し、世界に誇れる産業がなくなりつつある。


 さて一つ予言をしておくが、テレワークなどのリモートワークが広まって仕事の成果物が問わるようになると、これまで仕事が「デキない」とレッテルを貼られていた俗に発達障害と言われる人達の能力がいかに高いかということが、明らかになるだろう。彼らは純粋に成果物のみが問われるような仕事に、その真価を発揮する。ちょうどこのように神ブログを書いている僕のように。新しい時代には、健常者様達が築き上げてきたような「仕事がデキる」人達の働き方は、必要なくなるだろう。