徒然なる哲学日記

徒然なる哲学日記

日常生活の出来事にたいする考察(セネカの倫理書簡124通の英訳からの訳を公開してます)

セネカ 倫理書簡集 目次【全文無料】

資料

ラテン語原文・目次wikisource

翻訳元英訳・目次wikisource

目次

   書簡1  自分の時間を守ることについて

   書簡2  読書における散漫について

   書簡3  真の友情と偽の友情について 

   書簡4  死の恐怖について

   書簡5  哲学者がとるべき立場について

   書簡6  知識を分かち合うことについて

   書簡7  大衆について

   書簡8  哲学者の隠棲について

   書簡9  哲学と友情について

   書簡10  一人で生きることについて

   書簡11  内気さや赤面について

   書簡12  老年について

   書簡13  根拠のない恐怖について

   書簡14  世間から身を引く理由について

   書簡15  筋肉と頭脳について

   書簡16  哲学—人生の導き手—について

   書簡17  哲学と富について

   書簡18  祭日と少食について

   書簡19  世俗の生活からの引退について

   書簡20  教えとその実践について

   書簡21  僕に手紙が君にもたらす栄誉について

   書簡22  中途半端に退くことの無益さについて

   書簡23  哲学から得られる真の喜びについて

   書簡24  死を軽蔑することについて

   書簡25  心の改善について

   書簡26  老年と死について

   書簡27  永続きする善について

   書簡28  不満を癒さんとしての旅について

   書簡29  マルケリヌスの危機的な状況について

   書簡30  征服者を征服することについて

   書簡31  セイレーンの歌声について

   書簡32  進歩について

   書簡33  格言を学ぶことの無益さについて

   書簡34  前途有望な弟子について

   書簡35  同じ心を持つ者の友情について

   書簡36  引退の価値について

   書簡37  理性に従うことについて

   書簡38  静かな会話について

   書簡39  高貴な志について

   書簡40  哲学者の談話にふさわしい話し方について

   書簡41  われわれの内なる神について

   書簡42  真の意味で価値のあるものについて

   書簡43  人からの評判について

   書簡44  哲学と家柄について

   書簡45  屁理屈の多い議論について

   書簡46  ルキリウスの新しい著作について

   書簡47  主人と奴隷について

   書簡48  哲学者にふさわしくない詭弁について

   書簡49  生の短さについて

   書簡50  われわれの盲目とその治療について

   書簡51  バイアエとモラルについて

   書簡52  指導者を選ぶことについて

   書簡53  精神の過ちについて

   書簡54  喘息と死について

   書簡55  ウァティアの別荘について

   書簡56  閑静なことと勉強について

   書簡57  旅の試練について

   書簡58  存在について

   書簡59  快楽と喜びについて

   書簡60  災いの祈りについて

   書簡61  喜んで死を迎えることについて

   書簡62  善き交わりについて

   書簡63  友を失った悲しみについて

   書簡64  哲学者の仕事のについて

   書簡65  原因について

   書簡66  徳の諸側面について

   書簡67  不健康と、苦痛への忍耐について

   書簡68  英知と隠棲について

   書簡69  平穏と不穏について

   書簡70  死ぬべき時について

   書簡71  最高善について

   書簡72  哲学の敵としての実務について

   書簡73  哲学者と帝王について

   書簡74  世俗的な喜びから逃れるための美徳について

   書簡75  魂の病について

   書簡76  老年期に英知を学ぶことについて

   書簡77  自ら命を絶つことについて

   書簡78  精神の持つ癒しの力について

   書簡79  学問研究の発見の報酬について

   書簡80  世の中の欺瞞について

   書簡81  恩恵について

   書簡82  普遍的な死の恐怖について

   書簡83  酔っ払いについて

   書簡84  思想の収集について

   書簡85  いつくかの無益な三段論法について

   書簡86  スキピオの別荘について

   書簡87  質素な生活を称えるいくつかの議論について

   書簡88  自由な学問と職業の学問について

   書簡89  哲学の各部門について

   書簡90  人類の進歩において哲学が果たした役割について

   書簡91  ルグドゥーヌムの火災から得られる教訓について

   書簡92  幸福な生について

   書簡93  人生の長さと比較した際のその質について

   書簡94  忠告の価値について

   書簡95  基本原理の有用性について

   書簡96  苦難に向き合うことについて

   書簡97  時代の堕落について

   書簡98  運命の気まぐれについて

   書簡99  肉親を失った人への慰めについて

   書簡100   ファビアヌスの書物について

   書簡101   将来の計画を立てることの無益さについて

   書簡102   不死を教えてくれるものについて

   書簡103   俗人と交わることの危険性について

   書簡104   健康への配慮と心の平静について

   書簡105   自信をもって世界に対処することについて

   書簡106   美徳の実体性について

   書簡107   宇宙の意志に従うことについて

   書簡108   哲学への取り組みについて

   書簡109   賢者と賢者の交友について

   書簡110   真の富と偽の富について

   書簡111   頭の体操の空虚さについて

   書簡112   凝り固まった悪徳の改善について

   書簡113   魂とその属性の生物性について

   書簡114   性格を表す鏡としての文体について

   書簡115   表面的な幸福について

   書簡116   感情の制御について

   書簡117   論理の巧妙さ以上に優れた真の倫理について

   書簡118   高い地位を求めることの虚しさについて

   書簡119   われわれの最善の供与者としての自然について

   書簡120   さらに美徳について

   書簡121   動物の本能について

   書簡122   悪徳の覆いとしての暗闇について

   書簡123   快楽と美徳の争いについて

   書簡124   理性により得られる真の善について

 

 

補足資料

〇英訳に関して

 ・倫理書簡集〔Epistulae Morales ad Lucilium〕とはwikipedia

 ・英訳の解説wikisource

 ・英訳の人物索引wikisource

 ・英訳のテーマ毎の索引wikisource

〇ポテマル訳に関して(随時更新予定)

・解説および感想

・人物索引

・テーマ毎の索引

・四コマまとめ

・参考になる書籍まとめ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

シュタイナーの輪廻転生論~ギルガメシュとエアバニ⇔アレクサンドロスとアリストテレス~

 今回からシュタイナーの輪廻転生論に登場する、歴史上の登場人物についてまとめていく。セネカに言わせれば、こうした細かい知識についての探究は頭の体操にはなっても叡智に結びつくものではないらしいが、いかんせんセネカの倫理書簡集の訳が終わってからやることがないので、ブログのコンテンツを充実させるためにも、苦にならない程度に進めていく。なお、内容についてはシュタイナーの言っていることはほぼ無条件で正しいものと信じることにして、それを基に知識を整理したり考察を進めていくこととする。

 

 今回の参考書籍はこちら

シュタイナー「歴史を生きる」(商品リンク)

 

ギルガメシュ神話

 古代メソポタミアの文学作品。詳細はWikipediaギルガメシュ叙事詩」を参考にされたい。神人とも言えるほど強大な力を持つギルガメシュの圧政に苦しんでいた都市ウルクの人々は神に助けを求めた。すると神は人間であるエアバニ(エンキドゥ)を地上に送り出した。このエアバニは獣の毛皮をまとっており野蛮人に見えたが、太古の見霊能力を備えていた。ウルクにやってきたエアバニはギルガメシュと衝突するが喧嘩を通じて仲良くなり、親友となった。

 しかしやがて色々あってエアバニは死んでしまうことになり、それによりギルガメシュは深い悲しみに襲われることになり、不死について考えるようになる。そして遥か西方に永遠に生きる人物シストロスがいると噂を聞いて、彼に会うために西方に向かう。

 シストロスの国に辿り着いたギルガメシュは、どんな人も死を自覚(覚悟)しなければならない*1ことを学ぶ。

 そしてギルガメシュはシストロスに尋ねる。(以下そのまま「歴史を生きる」から引用。)

「どのようにしてあなたは、自分の存在の永遠なる核心を知ることができたのですか。なぜあなたは不死を自覚できたのですか。」

そうするとシストロスはこう答えます。

「あなたもそうなることができます。けれどもそうなるには、私と同じように恐怖と不安と孤独のすべてに耐えなければなりません。神エアが人類のこれ以上存続すべきでない土地を破滅させようと定めたとき―—アトランティスの大破局のことです―—、神エアは私に、船の中に座っていなさい、と命じられました。私は生き続けるべき人びとと一緒に船に乗り、大破局を生き延びたのです。」

 シュタイナー「歴史を生きる」P23

 そしてなんやかんかあってギルガメシュはその後不老不死の秘薬を手に入れるが、ある時蛇に奪われてしまう。しかし魂の不死を知ったギルガメシュは、それでもエアバニに会いたいと願う。

 すると本当にエアバニの霊が現れて、ギルガメシュは親友と再会を果たす。

 

(このあたりの内容については、ずんだもん動画で分かりやすくまとめてくれている人がいるので、参考にされたい。当たり前だがアトランティスとかの話は出てこない。)

www.youtube.com

 

 この物語に登場するギルガメシュは神的な本性を持つが、一方のエアバニはもっと人間的で「若い魂」を持っている。転生回数がまだあまり多くないので、太古の見霊能力を持っている。

ギルガメシュとエアバニの転生

 このバビロニアカルデア文化期になされたことが、ギリシャ=ラテン文化期にも形を変えて繰り返される。すなわちギルガメシュアレクサンドロス大王に転生し*2、エアバニはその師アリストテレスに転生した。そしてアレクサンドリアで、霊的な力が個人的な力へと変わった。キリスト教がこの地から生まれたのもそのため。非個人的な道徳を謳うはずのキリスト教だが、この地のキリスト教徒から四世紀の大司教テオピロスと、その後継・血縁者のキュリロス*3のような個人的・利己的な人物が現れたのもそのため。キリスト教はその初期には、みずからの最大の弱点としての、個人的な側面をそのようにさらけ出した。

ヒュパティアの殉教

 このアレクサンドリアで、オルフェウスの霊的な本性を物質界に投影した素晴らしい女性がいた。それがヒュパティアである。

(このヒュパティアについても、ずんだもんの分かりやすい動画があるので参考にされたい。また映画「アレクサンドリア」にも描かれている。こちらはレイチェル・ワイズが美人である。)

www.youtube.com

映画「アレクサンドリア」でレイチェル・ワイズ演じるヒュパティア。美しい。

 

 オルフェウス教徒の求める秘密は、ザグレウスディオニュソスの神話の中に見られる。ザグレウスは巨人たちに八つ裂きにされたが、心臓のみはアテーナーによって救い出され、ゼウスの元へ届けられた。そしてゼウスは心臓を呑み込んでセメレーと交わり、ディオニューソスをもうけることで、そのからだに高次の生命力を授けた。このことがオルフェウス教徒によって追体験された。つまりヒュパティアも同じような形で(牡蠣の殻で生きたまま肉を削ぎ落されて)八つ裂きにされた。これにより、オルフェウス教徒は、キリスト教以前に、すでにキリスト教的な最高の体験をしていた。

 ヒュパティアの前世は、まだギリシャ哲学史が残される以前のとある人物で、オルフェウス教秘儀の弟子で、シュロスのペデキュレースの師であった。

 この人物が4世紀のアレクサンドリアにヒュパティアとして転生し、オルフェウス教の秘密を個人的な体験に置き換えた。彼女はオルフェウス教秘儀におけるすべての体験内容を、数学の中に甦らせた。この叡智に満ちた個性に、初期キリスト教の権力を指向するだけの個性は憎悪を抱き、テオピロスやキュリロスのような人物をあのような所業に至らせた。

アリストテレスの真の教え

 話をアレクサンドロスアリストテレスに戻す。今日残っているアリストテレスの著作はその全体のわずかな部分にすぎず、宇宙と人間に関する彼の素晴らしい洞察の本質を知ることができない。一例として、アリストテレスアレクサンドロスに、次のように教えている(シュタイナー曰く)。

「地球の熱の作用圏で働くあのエーテル、つまり光エーテル、化学エーテル、生命エーテルは、かつて地球と結びついていた。すべてのエーテルが地球にまで達していた。しかし太古の時代に月が退いたとい、エーテルが地球から去った。そして、外なる空間という死せる世界に属する地上は、エーテルに貫かれていない。ただ春になると、月大霊たちが、生成する植物、動物、人間たちのために、エーテルを月の領界からこの存在たちの中へ持ち込む。そのときの月は形成者として働いている。」

 シュタイナー「歴史を生きる」P244

方角とエーテルの働き

 アリストテレスはこれらのことを徹底して教えた。人間の骨には血の要素が生き、血液・体液には水の要素が生き、呼吸・言葉には風の要素が生き、思考の中には火の要素が生きていることを。そして東方遠征にあたって、アリストテレスアレクサンドロスにこう言った。

 「東方へ旅立つお前は、ますます乾燥させる元素の中へ、乾燥した土地へ入っていく。」

 そして東南のインドに向かうにあたってアレクサンドロスは、次のように言った。

 「私は冷と湿の(北西)元素の中から、火の(南東)中へと身を投じなければならない。インドへ進軍しなければならない。」

 これが自然に従うことであり、古代の見霊意識(エアバニが持っていたような)にとっては道徳衝動であり、それをアリストテレスアレクサンドロスに教えた。

 また、アレクサンドロスが生誕したまさにその日(紀元前356年)、エフェソスのアルテミス神殿は、ヘロストラトスという冒頭者の放火によって消失してしまった。アレクサンドロスは、東方において失われたものを再び、少なくともギリシャにおいて彫像として保たれていた形だけでも、東方にもたらそうと考えた。

 この東方遠征により、西南アジアの各地に、アリストテレスの自然学が根付くことができた。後の時代になっても、多くの学者がギリシャから東方の各地へと渡り、とりわけエデッサの学園とゴンディシャプールの学園は、何世紀にもわたって、ギリシャから優れた人物を迎え入れることができた。

 

 この後19世紀に至るまでのアリストテレスの精神の二つの流れについて語られる。興味がある人は上記の「歴史を生きる」を購入されたい。が、ぶっちゃけ途中から訳が分からなくなってくる。

 

 

 

 

 

*1:死の覚悟。ストア派的なものか。

*2:アレクサンドロスの横暴さをたびたび批判してるセネカの作品を見るに、これは本当っぽい。

*3:ヒュパティアを殺した人物

シュタイナーの輪廻転生論 歴史上の人物まとめ

ルドルフ・シュタイナーの著作や講演における輪廻転生論に登場する、歴史上の登場人物についてまとめていく。それぞれの詳細については各人物のリンク先を参照されたい。

 

ギルガメシュとエアバニ⇔アレクサンドロスとアリストテレス

ヒュパティア

 

セネカ 倫理書簡124 理性により得られる真の善について

1. 私は君に、沢山の古の教えを伝えることができる、

もし君が逃げることなく、そんな些細な教えでも学ぶことを恥じと思わなければ*1

 しかし君は逃げることも、細かな議論に後ずさりすることもありません。というのも、君の優れた精神は、そのような重要な問題を、大雑把にぞんざいに扱うことはあり得ないでしょうから。僕も認めているように、君はあらゆることを進歩に結び付けて考えることをよしとしており、不満を抱くとすれば、緻密なだけで何の益にもならなかった場合だけです。そして今回においても、僕はそうならないように*2努めるつもりです。われわれが問うのは、善は感覚によって把握されるのか、それとも理性によって把握されるのか、ということです。そして当然のことですが、物言わぬ動物や幼児には、後者はありません。

 2. 快楽を最高のものとして評価する人々はみな、善を感覚で捉えられるものと考えます。しかし、われわれストア派は、善は理性によって捉えられると考え、心において見出されるものとします。もし感覚が善を判断するのであれば、いかなる快楽もわれわれは拒むことがなかったでしょう。なぜなら、人を惹きつけない快楽はなく、気持ちよくない快楽もありませんから。また反対に、いかなる苦痛もわれわれは進んで受け入れることはなかったでしょう。なぜなら、感覚とぶつからない苦痛はありませんから。3. そのうえ、極端に快楽を愛好したり、極端に苦痛を恐れるような人々も、〔もし感覚が善を把握するのであれば〕非難に値することはなかったでしょう。しかしわれわれは、美食や色欲の奴隷となった人々を非難し、苦痛を恐れて勇敢な行いをすることができない人々を軽蔑せねばなりません。ところが彼らが、ただ感覚のみを善悪の判定者と見做しているのならば、感覚に従うことが、何の罪になりましょう?というのも彼らは、求むべきものと避くべきものの基準を、感覚に委ねたのですから!

 4. しかし、このような事柄の判定者が、理性であることは言うまでもありません。理性は、幸福な生活や美徳について、そして立派なことについて判断を下したのと同じように、善と悪についても判断を下したのです。ところが、彼ら〔エピクロス派〕においては、最も低劣な部分が善についての判断を下します。そのため、重く鈍く、人間においては他の動物よりもいっそうのろまな感覚が、善悪の裁定者となるのです。5. もし繊細なものを、目ではなく触覚で区別しようとしたら、どうなるでしょう!われわれが善と悪と区別するためには、目よりも繊細で鋭敏なもの〔理性〕以上のものはありません。したがって、感覚によって最大の善と最大の悪を識別できると思っている人々は、どれほど真実への無知のうちに日々を過ごし、どれほど崇高で神聖な理想を低劣なものに貶めているかがお分かりになるでしょう!6. そのような人々は言います。「あらゆる学問技術やあらゆる芸術は、必ず明白な、感覚で把握できる根源を持つものであり、その根源から始まり、発展するのだ。それと同じように、幸福な人生も、その土台と始まりは明白なものから、つまり感覚で把握できるものから導かれるのだ。幸福な生活は明白な事柄から始まることは、君たち〔ストア派〕も認めているではないか。」7. しかし、われわれ〔ストア派〕は、「幸福な生活」とは自然に即したものだと定義しています。そして、自然に即した生活は明白であり、すぐに理解できます。完全なものを理解することが、容易であるのと同じように。また、自然に即したもののうち、誕生と同時にわれわれに与えられるものは、善ではなく、善の始まりだと僕は考えます。ところが、君たち〔エピクロス派〕は、快楽を最高善として赤ん坊にも備わったものと考えます。その結果、生まれたばかりの赤ん坊が完成した大人の到達点から始まることになるのです。根があるべき場所に、梢の先端が割り当てられます。8. もし誰かが、まだ母親の胎内にいて、性別も判明しておらず、未熟で、まだ姿形も定まっていない子供でも、すでに善の状態にあるなどとを言うなら、その人は明らかに間違っています。そして、今しがた生まれたばかりの赤ん坊と、まだ母親の胎内に隠れて重荷となっている赤ん坊とで、どんな違いがあるというのでしょう!彼らは善と悪の理解力に関して同程度であり、幼児がまだ善を知ることがないのは、樹木や、物言わぬ動物がそうではないのと同じです。

 しかし、どうして樹木や物言わぬ動物には善がないのでしょう?それは、理性もないからです。同じ理由で、幼児にも善はありません。幼児もまた、理性をもちません。幼児は理性に到達〔するまで成長〕して初めて、善に到達することができます。9. 動物には、理性がない動物、まだ理性がない動物、理性はあるものの、それが不完全なものである動物がいます。しかし、これらの動物のいずれにおいても、善は存在しません。なぜなら、善を一緒に連れてくるのは、〔人間が持つような〕理性だからです。それでは、僕が先に述べた三種類の動物の間には、どんな違いがあるでしょう?理性がない動物には、全く善はありません。まだ理性が備わっていない動物には、その時点では善はありません。理性はあるものの、それが不完全な動物は、善を持つことができるとしても、今は持っていません。10. 僕が言いたいのは次のことです、ルキリウス君、つまり、善はどんな人間においても、どんな年齢においても、偶然に生じることはありません。そして善が幼児から遠く離れたところにあるのは、最後が最初から遠く離れているのと、完全なものが未熟なものから遠く離れているのと同じです。したがって、善は今しがた生まれ、繊細に組みあがり始めたばかりの〔赤ん坊の〕小さな体の中には、存在することができません。どうしてそうでないことがありましょう。種子がまだ、種子に過ぎないのと同じです。11. これが真実であることは、次のような例えから分かります。われわれは、樹木や草花には、ある種の善*3があることを知っています。しかしそれは、今しがた地面から姿を現した最初の新芽のうちにはありません。小麦にもある種の善があります。しかしそれは、膨らんだ茎の中にはまだ存在せず、柔らかい穂が鞘から出てくる時にも存在しません。そうではなく、夏の日差しが終わり、秋の収穫期を迎えて実が十分に熟した時に初めて存在します。通常自然は、それが完全になった時に初めて、自らの善を生じさせます。それと同じように、人間の善は、人間の理性が完全なものとなって初めて、人間に備わるのです。12. では、その善とはどんなものでしょうか?お教えしましょう、それは自由な心であり、正しい心であり、他の全てを自らに従えても、それ自身は何事にも屈従しない心です。この善は幼年期に存在しないのはもちろんのこと、少年期にも望みえず、青年期ですら、望んでも望みえず、長きに渡る奮闘努力の末、老年期にやっとのことでこの善に到達できたとしたら、それはたいへん幸福なことです。そして、これが善であるなら、この善は理性によって獲得されたことになります。

 13. 「しかし」反論があります。「君は樹木や草花にも何らかの善があると言ったではないか。であるなら、当然幼児にも何らかの善があることになる。」しかし、真の善は、植物の中にも物言わぬ動物の中にもありません。それらの善は形式上「善」と呼ばれているに過ぎません。「それはどういうものか?」と君たちは問うでしょう。それは各々の自然本性に沿ったものに過ぎません。本当の善は、物言わぬ動物の中には決して見出すことはできません。それはより幸甚な、より誉れ高いものですから。そして理性の存在しないところには、善もまた存在しません。14. われわれの言う自然には、次の四種類があります。植物の、動物の、人間の、神々の自然です。後者の二つは理性を持っているという点で、同じ性質ですが、異なる点として、神々は不死ですが、人間は死すべき存在です。それゆえ、これらの内の一方、つまりは神を完成させるのは自然ですが、他方、つまりは人間を完成させるのは勤勉です。神々と人間以外のものは、各々の自然本性において完全ですが、理性を欠いているため、真の意味での完全ではありません。

 つまるところ、〔真の意味で〕完全なものとは、普遍的な意味における〔全宇宙としての〕自然に従っているものに他なりません。普遍的な自然〔宇宙の摂理〕は、理性的なものですから。その他のもの〔植物や動物〕は、それぞれの種類において完全であるだけです。15. 幸福な生活があり得ないものは、幸福な生活を生み出すこともあり得ません。そして幸福な生活とは、善によってのみ作られます。もの言わぬ動物に幸福な生活はなく、また幸福な生活を生み出す手段〔理性〕もありません。それゆえ物言わぬ動物に、善は存在しません。16. 物言わぬ動物は、自分の世界の現在の状況を、感覚によってのみ把握します*4。動物は感覚によって思い起こされる何かに出会った時のみ、過去のことを思い出します。たとえば馬が道を思い出すのは、その道の出発地点に連れて来られた時だけです。しかし馬小屋の中では、たとえ何度歩いたことがあっても、その道を思い出すことはありません。〔過去、現在に続く〕第三の時、すなわち未来に関しては、物言わぬ動物は全く関与しません。

 17. それでは、いまだ完全な形で時間を経験したしたことがない自然の存在〔動物〕を、どうして完全だと見做すことができるでしょう?というのも、時間とは、過去、現在、未来という三つの部分から成り立ちます。動物には、自分たちの活動において最も重要な時間のみが、つまり現在のみが与えられています。稀に過去を思い出すことはありますが、それも現在において思い出させるものに出会った時のみです。18. ですから、完全な自然〔宇宙〕の善は、不完全な自然〔動物〕の中に存在することはできません。なぜなら、後者の自然でも善を所有することができるなら、ただの植物でも、善を所有できることになりますから。物言わぬ動物が、自然に即していると思われるような行動において、力強く素早い衝動を持っていることを僕は否定しませんが、そのような衝動は混乱した、無秩序なものです。しかし善は決して混乱することも、秩序を失うこともありません。

 19. 「何と!」君たち言います。「物言わぬ動物は混乱して無秩序に動くというのか?」僕が言ったのは、動物の自然本性が秩序を把握しようとしていたならば、動物は混乱した、無秩序な存在だという意味です*5。実際には動物は、〔秩序を把握しようとすることなく〕その自然本性に従って行動しています〔ので、混乱しているようには見えません〕。というのも「混乱している」ものとは、或る時には「混乱していない」ことがあるからです。不安なものとは、安心することがあるもののことです。悪徳を持つのは、美徳を持ちうる人以外にはあり得ません。物言わぬ動物において、その行動はその自然本性に基づいたものです。20. しかし、話が冗長になり過ぎないようにするため、ここで〔一度整理する形で〕言っておきましょう。物言わぬ動物においてもある種の善があり、ある種の美徳があり、ある種の完全さがあります。しかしそれらの善も美徳も完全性も、絶対的なものではありません。なぜなら、絶対的なそれらは、原因、程度、手段といったことを知ることが許された、理性的な存在にのみ与えられるものだからです。ですから、善は理性のない存在には決して備わりません。

 21. さて、このような議論がどんな方向に進んで行くのか、君の心にどのように役立つかということをお尋ねですか?お伝えしましょう。それは心を鍛錬し、鋭くし、立派な考えを心に呼び起こし、善を希求することを約束してくれます。そして人々が、悪徳へと急いでいる時には、その足を遅めることにも役立ちます。しかし、僕はまた次のようにも言いましょう。僕は君に備わっている善を君自身にお示しし、君を物言わぬ動物の間から救い出し、神々の近くに置くにあたって、これ以上に効果的な手段*6を知りません。22. どうして君は肉体を強くせんと、鍛錬するのでしょう?自然は家畜や野獣に、そのような力強さをもっと多く授けました。どうして君は容貌を飾り立てるのでしょう?君があらゆる努力をしたところで、美しさにおいては物言わぬ動物に敵いません。どうして君は髪を整えるのに入念な注意を払うのでしょう?それを君がパルティア人風に下ろしても、ゲルマニア人風に束ねても、スキュタイ人風に乱雑に流しても、どんな馬でももっと優雅にたてがみをたなびかせるでしょうし、もっと美しいたてがみが、ライオンの首のまわりに逆立つことでしょう。そして、どれほど速く駆ける訓練をしたところで、ウサギには敵わないでしょう。23. 君はこれら全てにおいて敗北を認め、自分の本性に相応しくないことのための無駄な努力は放棄せねばなりません。そして、君自身の本来のものである、善に立ち返ろうとは思いませんか?

 その善とは何でしょう?それは曇りなき清純な心であり、神々にすら立ち並び、死すべき人間を遥かに越え、自己自身以外の何ものをも、自分のものとは考えません。君は理性を持った動物です。それでは、君の中の善とは何でしょう?完全なる理性です。君はその理性を究極の段階にまで、可能な限りの最大ものにまで、発展させることを望みませんか?24. 君が自分自身を幸福だと考えるべき時とは、君のあらゆる喜びが、理性から生じる時ですし、人々が奪ったり、望んだり、大事にしてるものを見た後でも、君が欲しいものなど——何となく欲しいものではなく、単純に欲しいものが——、何もない時です。僕はそれにより君が自分自身を完璧かどうか評価することができる、一つの簡単な原則を君にお教えしましょう。「世の中で幸福だと思われている人々が実際は最も不幸だと理解できた時、君は真の自分自身を見つけられるだろう。」お元気で。

 

 

 

・英語原文

Moral letters to Lucilius/Letter 124 - Wikisource, the free online library

・解説

 理性を大切にしろ、ということ。最後の書簡だが、若干の論理遊びがここでも見られた…。

 

 

*1:ウェルギリウス「農耕詩」1.176~177

*2:緻密な論理遊びのみに終わることがなく、進歩に結びつくように

*3:ここでは善というよりアレテーのニュアンスが近いか。

*4:書簡121の解説2参照。

*5:つまり人間と比べたら。

*6:すなわち理性により人間と動物の違いを説明すること

セネカ 倫理書簡123 快楽と美徳の争いについて

 1. 僕は夜遅くにアルバ*1にある別荘に到着した時、長旅というよりも旅の不快さのせいで疲れ果てていました。そして用意されていたのは、僕自身だけでした*2。そこで僕は寝台に横たわって疲れを取り除いたのですが、料理人とパン職人〔による食事の準備〕が遅れているのは、僕にとっては善いことでした。というのも、僕はこれに関して、まさに自分自身と次のように語り合っていたのです。つまり、軽い気持ちで受け止めれば、何事も重大にはならないし、自ら怒りを増幅しない限り、腹立たしいものなど何もない、ということです。2. 僕のパン職人はパンがないとのことです。しかし、〔別荘の〕管理人や、執事や、借家人のうちの誰かが、もたらしてくれます。「まずいパンでしょう!」と君は言われる。けれども、しばらく待てば美味しくなります。空腹は、そのようなパンでも柔らかで上等なものにするのです。ですから、空腹になるまで食べてはなりません。つまり美味しいパンを手に入れるか、パンに対する選り好みを控えるまでは、僕は食べるつもりはありません。3. 人は僅かなものに慣れねばなりません。なぜなら、金持ちや快楽の用意ができている人々にさえ、時間的、場所的な様々な制約が生じて、その望みを妨害するでしょうから。望むもの全てを手に入れることは、誰にもできませんが、持たないものを望まないこと、手に入るものを快く受け取ることは〔誰にでも〕できます。自由の大部分は、よく躾けられ、粗末な扱いにも進んで耐える胃袋にあります。

 4. 僕の疲労が、自然と回復してきたことから、僕がどれほど大きな喜びを得たか、君には想像もつかないでしょう。僕には奴隷の按摩も、入浴も、その他のどんな薬も必要ありません。時間という治療薬以外には。というのも、苦労が積み上げた疲労は、休息によって軽くすることができますから。この食事はどんなものであっても、公職就任祝いの晩餐よりも、僕の大きな喜びとなるでしょう。5. 僕は自分の精神を、思いがけず試すことになったのです。そしてこれはより真実を試すことです。というのも、予め心の準備ができた人が自分に忍耐を課すのだとしたら、その人がどれほど真の心の強さを持っているかは、公平に見て明らかではありませんから。最も確実な心の強さの証は、即座に現れるものに示されます。つまり、厄介事に際して公正であるのみならず、寛大であったかどうか。怒りに駆られたり、口論を引き起こしたりしなかったかどうか。得られて当然だったはずのものを望まないことで自分自身の必要を満たし、いつもの習慣に何か不足する点があったとしても、自分自身に何も不足するところはないと考えたかどうかです。6. どれだけ多くのものが不要であるか、それが不足し始めるまでわれわれは気付きません。われわれはそれを、必要だからではなく、持っていたから用いていただけなのです。そして、隣人が手れたという理由だけで、あるいは多くの人が持っているからという理由だけで、われわれはいかに多くのものを手に入れることでしょう!われわれの不幸の原因の一つは、われわれが他人を真似て生きていること、理性に従って生活するのではなく、慣習に流されていることにあります。

 少数の人が行ったのであれば真似することはなかったことでも、多くの人が行い始めると、われわれはそれに従います。あたかも、より頻繁に行われることほど、より立派なことであるかのように!さらに、誤った考えもひとたび世間に広まれば、われわれはそれを正しさの基準とします。7. 今や誰もが、旅行の際にはヌミディア人の騎馬隊に先駆けをさけ、従者の走者の一団に先払いをさせます。道から人々を押し退けたり、高位の人の到来を派手な土煙で証明したりする従者がいないことは、恥ずべきことだとわれわれは考えるのです!今や誰もが、水晶や蛍石製の、著名な職人によって作られた盃を積んだラバを所有しています。運ばれる際に強く揺れても大丈夫な荷物しか持っていないことは、恥ずべきことだとわれわれは考えるのです。今や誰もが、日差しも寒さもその肌の柔らかさを痛めることがないよう、顔に軟膏を塗ってから、彼らの子供奴隷を馬に乗せます。健康な顔を見せるために化粧品を必要とする子供奴隷が自分のお供の中に一人もいないことは、恥ずべきことだとわれわれは考えるのです。

 8. すべてのこうした人々との話は避けるべきです。彼らは人から人へと悪しき習慣を伝え、われわれにそれを植え付けます。われわれは、こうした類の連中において最も悪しき人々は、流言を撒き散らす人々だと考えてきました。しかし、中には悪徳を撒き散らす人々がいます。彼らの話は大変有害です。なぜなら、それらはたとえ最初は受け入れられないものであっても、魂の中に煩いの種を残し、われわれが彼らから離れた後でも、再び芽生えた悪徳の力がわれわれを追い回すのですから。9. 楽隊の演奏会に参加した人の頭の中には、自分が聴いた楽曲の旋律や魅力が残り、それが思考を妨げ、真面目な事柄に集中するのを妨げます。これと同じように、おべっか使いや堕落した事柄の愛好家たちの話は、その話が終わってからも、長い間われわれの心にこびり付きます。耳に残った心地よさを忘れることは容易ではありません。それはわれわれの内に留まり、持続し、時を置いて戻ってきます。したがって、悪しき話については、最初から耳を閉ざさねばなりません。なぜなら、そのような話がひとたび入り口を見つけて、受け入れられ、われわれの心の中に入り込むと、それはいっそう恥を知らないものになるのですから。10. そしてついには、われわれは次のように言い始めます。「美徳や哲学や正義、そんなものは空虚なたわごとに過ぎない。唯一の幸福とは、自分の生活を楽しくすることだ。食べたり、飲んだり、財産を使うことが、唯一の生きることであり、自分が死すべき存在であることを忘れないための唯一の方法だ。日々は過ぎ去り、取り戻すことのできない人生は速やかにわれわれから遠ざかる。どうしてわれわれのようにすることを躊躇うのか?いつでも快楽を受け入れられるとは限らないわれわれの人生において、快楽を味わえる間に、求められる間に、質素倹約を自らに強いることに何の意味があるというのか?それゆえ、死に先回り、死がわれわれから奪い取るものは全て、今の内に使い果たしてしまおう。君は愛人を持っていないし、愛人の嫉妬を掻き立てるお気に入りの少年奴隷も持っていない。毎日人前に出る時は素面だし、あたかも父親にその日の収支報告をするような面持ちで食事をする。しかし、それは生きていることではなく、単に他人の生活に合わせているだけだ。11. そして、自分の相続人の利益に配慮するあまり、自分自身を蔑ろにして、その結果莫大な相続遺産が君の友人を敵に変えるとは、何と愚かなことだろう!というのも、相続するものが大きくなれば、彼はそれだけいっそう君の死を喜ぶことになるのだから!卑屈な精神で他人の生活を非難し、自分自身の生活の敵でありながら、世の中の教育者面をしてるあの不機嫌な連中〔哲学者〕のことは、びた一文ほどにも評価すべきではない。君はよい評判よりもよい生活を求めることを、躊躇うべきではない。」

 12. こうした声は、オデュッセウスがそうしたのと同様に、避けねばなりません。彼はそうした声*3を通り過ぎるまで、自分を帆柱に縛り付けさせました。かの声も、セイレーンの声に劣らず強力です。それは人々を国家から、両親から、友人から、もろもろの美徳から引き離します。それを通り過ぎなければ、恥ずべき惨めな人生に座礁してしまいます。正しい道を通って、「喜ばしい」ことと「立派な」ことが、同じ意味となる境地まで至ることのほうが、どれほどよいことでしょう。13. そこに至るためには、われわれは物事には、われわれを惹きつけるものと遠ざけるものの二種類があることを知らねばなりません。われわれは、富や快楽や美貌や名誉、その他甘言を弄したり、喜びを与えてくれるものに惹きつけられます。そして、労苦や死や苦痛や恥辱、あるいは質素な生活から遠ざかります。ですからわれわれは、後者は恐れないように、前者は欲しないように、自分自身を訓練する必要があるのです。それぞれに反抗するように戦いましょう。誘惑してくるものからは退却して、攻撃してくるものには立ち向かいましょう。

 14. 山を下る時と上る時では、どれほど正反対かをご存知ありませんか?坂を下る人は体を後ろに反らしますが、険しい坂を上る人は前かがみになります。というのも、僕のルキリウス君、下る時に前かがみになることや、上る時に体を後ろに反らすことは、悪徳に従うも同然ですから。快楽の道は下り坂ですが、人は険しく困難な道を上るために、奮闘努力せねばなりません。上る時は体を前のめりにし、下る時は手綱を引きましょう。

 15. 僕が今言ったことは、次のような意味であると思われますか?つまり、われわれの耳に破滅をもたらすのは、快楽を称賛し、苦痛への恐怖という、それ自体恐れをもたらすものを煽り立てる人々だけである、と。僕はまた、ストア派を装ってわれわれを悪徳へと導く連中によっても害されていると考えます。彼らは、賢者あるいは学者のみが、愛することを知っていると自慢気に言います。「その技術を心得ているのは彼らだけだ。賢者はまた、酒にもご馳走にも精通している。われわれが探究すべきはただ次のことのみ、つまり何歳までの若者を〔賢者は〕愛することができるか、である*4!」16. こんなことは全てギリシャ人の慣習に任せましょう。われわれはむしろ、次のような言葉に耳を傾けるべきです。「誰も偶然に、善き人物となることはできない。美徳とは学ばなければならないものだ。快楽とは低劣で下らない、無価値なものであり、物言わぬ動物と共通のものだ。最も小さく、卑小な動物ですら、快楽に向かって飛びつく。名声とは空虚で儚いものであり、空気よりも軽い。貧困は、それに横暴に逆らわない限り、誰にとっても悪ではない。死も悪ではい。なぜそれを尋ねる必要があろう?死は唯一の、人類に平等に与えられた権利だ。迷信は狂人のもつ偽りの考えだ。それは愛すべき人を恐れ、尊重すべき人々を傷つける。というのも、神を否定することと冒瀆することの間に、何の違いがあるだろう*5?」

 17. 君はこのような言葉を学ぶべきです。というより、暗唱できるほどにまでなるべきです。哲学は悪徳に、弁解を許してはなりません。というのも、病人がもし医師から不摂生を許されたら、それはもう助かる見込みが皆無ということです*6。お元気で。

 

 

・英語原文

Moral letters to Lucilius/Letter 123 - Wikisource, the free online library

・解説

 疲れて別荘に到着した際に食事が用意されていなかったことに腹を立てたセネカの、強がりシリーズの書簡の最後の一つである。後に書かれている内容がいいだけに、セネカがどこまで冗談で、どこまで本気で怒っていたのか分からない点が面白い。

 

 

 

 

 

 

 

*1:ローマの南東約20kmにある、アルバーノ湖

*2:別荘に着いた時に疲れ果てて腹ペコだったのに、食事は何も用意されていなかった、という意味。

*3:セイレーンの歌声。書簡31も参照。

*4:食道楽や少年愛の言い訳として哲学を引き合いにしてる悪例

*5:迷信を信じることは、神を冒涜することだということ。ここで明言はしていないが、占いなどに対する批判的な気持ちも込められているのかも知れない。

*6:哲学(医師)が悪徳(不摂生)を弁明するようなことがあれば、その魂はもう救いようがないほど腐ってる、という意味。

セネカ 倫理書簡122 悪徳の覆いとしての暗闇について

 1. 昼の時間が減ってきました*1。それはすでにかなり短くなりましたが、それでも日の出と共に起床すれば、十分に時間に余裕はあります。勤勉でより善き人間ほど、朝日を待ち望み、夜明けを歓迎します。しかし恥ずべき人間は、日が高く昇るまで眠りこけ、正午になってからようやく目覚めます。さらにはその時間になっても、まだ夜明け前という人は大勢います。2. 昼と夜の勤めを逆にした人たちもいます。彼らは夜が近づいて初めて、昨日の放蕩で重くなった目を開くのです。こうした連中は、ウェルギリウスのいう、自然がわれわれの住む所と正反対の世界に置いた者たちと同じです。

夜明けの火が、われわれに駿馬の息吹を吹きかける頃、

赤く燃える宵の明星*2が、夕暮れの火を灯す*3

彼らの場合われわれと「正反対」なのは住む場所ではなく、その生き方です。3. われわれの住むこの同じ都市にも、カトーの言葉を借りるなら、「太陽が昇るところも沈むところも見たことがない」正反対の人びとがいるのです。いつ生きるべきかも知らないこの連中が、どう生きるべきかを知っていると思いますか?この連中は死を恐れるのでしょうか?既にその中に埋まって死んでいるも同然なのに。彼らは夜の鳥*4と同じくらい、不吉な存在です。彼らは酒と香料に囲まれて夜の時間を過ごし、いくつもの種類に分かれた料理が出される宴会に、歪んだ不眠の時間の全てを費やすのですが、彼らが催してるのは宴会ではなく、実は彼らの葬儀なのです。もっとも〔本当の〕死者の葬儀は、日中に行われるのですが。

 しかし、誓って申しますが、活動的な人にとっては、どの一日も決して長くはありません。ですから、われわれは人生を長く保ちましょう。人生の勤めと証は活動にありますから。夜は短く切り詰めて、その時間を昼の義務に回しましょう。4. 宴会のために用意される鳥は、運動させないことで容易に太らせるため、暗い所で飼われます。これと同じように、有意義な活動もせずに横たわっている者たちは、怠慢な肉が体じゅうでふくれ上がり、自堕落な生き方を通して肥満が襲いかかります。さらに、暗闇に身を捧げることを誓った連中の肉体は、醜い容貌をしています。彼らの顔色は、病気で衰弱している人よりもいっそう青白く、貧弱であり、まだ生きてはいても、彼らはすでに腐肉です。しかしこれは、彼らにおける最少の不幸だと思います*5。なんと深い暗闇が、彼らの魂を覆っていることでしょう!このような連中は内心において麻痺しており、〔魂の〕視界は闇に閉ざされ、盲人の方がましという有様です。暗闇のために目を持った人がいるでしょうか*6

 5. 君がお尋ねしたいのは、こうした堕落がどのようにして魂に生じるのか、つまりどのようにして、昼をひっくり返して、自分の全人生を夜に明け渡すようになるのか、ということですね?あらゆる悪徳は自然に反逆し、定められた秩序を破棄します。贅沢は常軌を逸することを喜び、正道から離れるのみならず、できる限り遠ざかり、ついには正反対のところにまで行き着きます。6. 空きっ腹で酒を飲み、血管に酒を流し込んで、酩酊状態になってから食事にかかるのは、自然に反した生き方だと君は思いませんか?そして次のことは、若者がよくやる悪徳なのですが、彼らは体を鍛えるためとて、まさに浴場の入口で裸のまま、酒を飲み合います。いえ、酒を飲むというよりは、酒に体を浸し、熱い酒を何杯も呷ることで落ちた汗を、今度はすぐに〔浴場で〕洗い落とすのです!彼らにとって、昼食後や夕食後に酒を飲むのは俗なやり方であり、快楽の嗜みを知らない田舎の主人がすることなのです。そのような生酒が彼らを喜ばせるのは、〔胃の中〕で食べ物を浮かべることもなく、直ぐに筋肉に浸透するからです。彼らは胃が空だからこそ、酩酊が嬉しいのだそうです。

 7. 衣装を女たちが着るものと交換している男も、自然に反した生き方をしていると君は思いませんか?その年頃はとうに過ぎたのに、なおも少年時代の容貌を保とうと努めることは、自然に反した生き方だと君は思いませんか?これ以上に残酷で、悲惨なことがあるでしょうか?時の流れも男性という性も、彼をこのような歪な少年時代から連れ出してくれるはずではなかったのでしょうか?8. 冬に薔薇を求めたり、温水を供給するような人工の設備を使うことで気温を調整して、春の花であるはずの百合を育てたりする人は、自然に反した生き方をしていませんか?高い建物の上部に果樹園を作る人は、自然に反した生き方をしていませんか?その〔果樹園の〕森の梢は家々の屋根や屋上に揺れなびき、その根は、〔地上の〕木の頂上がとうてい届かないほどの高いところから伸びていはいないでしょうか?浴場の基盤を海中に築き、温水が波や嵐のように打ち寄せない限り入浴を楽しむことはできないと考える人は、自然に反した生き方をしていませんか?

 9. 人々があらゆることを自然に反して望むようになると、やがては完全に自然を放棄するようになります。彼らは言います。「昼になった、眠りに就こう!人々が寝静まった、さあ運動しよう、さあ出かけよう、さあ昼食にしよう!ああ、夜明けが近づいてる、夕食の時間だ!普通の人のようなことはすべきではない!通常の、ありきたりの生活をすることは、低俗で恥ずべきことだ。平凡な昼は捨て去ろう。自分らしいやり方で、特別の朝を迎えよう!」10. このような人々は、僕に言わせれば死んでいるのです。彼らはみな、葬式に、それも早すぎる葬式に参列しているのです。松明と蝋燭*7の中で暮らしているのですから。僕は、こうした生き方がかつて同じ時代に沢山存在したことを思い出します。そのような人物の一人であるアシリウス・ブタ*8は、法務官の経験者で、巨額な相続遺産を使い果たした後で、窮乏をティベリウス帝に告白したところ、次のように言われました。「目覚めるのが遅すぎたな!」11. ユリウス・モンタヌス*9は詩をよく詠んでいた人物で、そこそこの詩の実力を持ち、ティベリウス帝からの寵愛と、後の帝からの冷遇でよく知られています。彼はいつも日の出と日の入りを、好んで自分の詩の中に散りばめました。そのため或る人物が、モンタヌスは一日中詩を朗読していると難癖をつけ、誰も彼の朗読会に出席するべきではないと言った時、ピナリウス・ナッタ*10は次のように申しました。「これ以上に気前のよい取り引きがあるだろうか。私は日の出から日の入りまで、彼の朗読を聞くことが出来るのだ*11!」12. モンタヌスが次のような詩句を朗読していた時のことです。

太陽神がその燃え盛る炎で、

朝を明るく輝かせ始める。

悲しげな眼をした燕が、

騒ぎたてる雛たちに餌をやらんとして巣に戻り、

優しいくちばしで食べ物を分け与える。

ここで、ウァルスという、マルクス・ウィキニウス*12の従者であり、その皮肉な機知のために豪華な宴席にも頻繁に招かれていたローマの騎士が、叫びました。「ブタの眠る時間だ!」13. そして、モンタヌスが次のように朗読した時です。

見よ、牛飼いたちは群れを牛舎に戻した。

そして眠気を催した大地に、夜がゆっくりと静寂を与え始める。

この同じウァルスが言いました。「何だって?もう夜になったのか?ブタのところに朝の挨拶をしに行こう!」このように、ブタの倒錯した生き方ほど、悪評高いものはありませんでした。しかし先ほども言ったように、多くの人が当時はこのような生活を送っていたのです。14. そして、或る人々がそのような生き方をする理由は、夜そのものが何か楽しみをもたらしてくれると彼らが考えるからではなく、普通のことはつまらないことであり、罪の意識にとって光は煩わしい敵であり、払うべき金額の多寡に応じてあらゆるものを渇望したり見下したりする人たちにとって、無償で手に入るもの〔昼の光〕は軽蔑に値するからです。そのうえ、贅沢な人間は、自分の一生が人々の噂の的であることを望みます。人々が自分について何も語らなければ、自分の仕事は無駄だったと思うのです。ですから、自分の行動によって悪評を得られないことに、不快感を抱くのです。

 多くの人が財産を食い潰していますし、多くの人が愛人を囲っています。そのような人々の間にあって評判を勝ち取るためには、君は単に贅沢なことを行うのみならず、悪しきことをも行わねばなりません。なぜなら、このような忙しない連中の社会においては、普通一般程度の堕落では、注目を集めることはできないでしょうから。15. 僕は、最も洗練された語り手の一人である、アルビノウェヌス・ペドー*13が、彼の屋敷から見下ろせる位置にあった、セクストゥス・パピニウス*14の邸宅について話すのを、聞いたことがあります。パピニウスは光を嫌う人種の一人でした。「私は夜の九時頃に、鞭の音を聞いた。あれは何かを尋ねると、パピニウスが収支勘定の報告を受けているとのことだ。十二時頃に、激しい叫び声を聞いた。あれは何かを尋ねると、彼が発声練習をしているとのことだ。午前二時頃、車輪の音を聞いて、私はそれについて尋ねた。彼が遠乗りに出かけるとのことだ。16. そして夜が明けると、奴隷や給仕たちが大慌てで駆け回り、料理人たちが大混乱を起こす。私はそれについても尋ねたが、彼が風呂上りに、蜂蜜酒と麦粥を求めたとのことだ。彼の夕食は、」ペドーは続けます。「日没を越えることは決してなかった。なぜなら、彼はたいへん質素に暮らしていたからだ。彼は贅沢をすることはなかった、夜の時間を除いて。だから、パピリウスを貪欲でケチだと言う人達の言葉を信じるなら、彼を『灯の奴隷』と呼ぶのがよいだろう。」

 17. 悪徳を示す例がこれほど多くあるからといって、驚くには及びません。なぜなら、悪徳は様々な種類のものが無限に存在し、その全てを整理することなどできないのですから。正しいことを維持する道は単純ですが、悪しきことを維持する道は複雑であり、逸脱する機会は無数にあるのです。そして同じことが、人の性格についても当てはまります。自然に従う人々の性格は、従順であり、自由であり、互いにわずかな違いしかありません。しかし、僕が先に述べたような連中がもつ性格はひどく歪んでおり、本人を含め、全てが互いに大きく異なっているのです*1518. しかしながら、この病の最も大きな原因は、普通の生活に対する反抗心であると僕には思えます。このような連中が、服装においても、宴会の絢爛さにおいても、馬車の美麗さにおいても自分を他人から区別しよう考えるのですが、それと同じように、彼らは一日の時間の使い方においても、自分を他人から区別しようと考えるのです。彼らにとっては、悪評こそが悪事の報いですので、通常のやり方で悪事を行おうとはしません。悪評を求めるこれらの連中は、言うなれば逆さまに生きているのです。

 19. こういったことから、ルキリウス君、われわれは自然が定めてくれた道を守り、そこから外れないようにしましょう。われわれが自然に従えば、全ては容易であり、妨げとなるものはありません。しかし自然に逆らえば、その人生は流れに逆らって船を漕ぐ者も同然です。お元気で。

 

 

・英語原文

Moral letters to Lucilius/Letter 122 - Wikisource, the free online library

・解説

 朝型をセネカは推奨している。

 

 

 

 

 

 



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:冬になって

*2:明けの明星の金星が彼らには宵いの明星になる

*3:ウェルギリウス「農耕詩」1.250~251

*4:フクロウ

*5:魂の不幸に比べて

*6:盲人と違って目があるのに、それが暗闇を見るためにある連中は哀れだとセネカは言っている。

*7:子供の葬儀は、日没後に松明と蝋燭と灯して行われた。つまり彼らの人生が子供のように短く無意味だと言っている。同様の表現として、「だが、いいかね。ほんとうは、こんな人たちの葬式は、たいまつとろうそくを灯しておこなうべきなのだ―—彼らの人生が、とても短かったかのように。」人生の短さについて20.5

*8:ティベリウス帝時代の人物で、セネカのこの書簡以外では知られていない。

*9:ティベリウス帝時代の抒情詩人。

*10:ティベリウス帝に陰謀を企てたセイヤヌスの家来。

*11:どうせ難癖つけている連中は、日中活動なんてしていないだろう、という皮肉か。

*12:書簡40.9に登場する、プブリウス・ウィキニウスの息子。30年の執政官で、46年にメッサリナに毒殺された。

*13:オウィディウスと同時代のローマの詩人

*14:詳細不明

*15:本人自身とすら異なることについては、書簡120.22参照

セネカ 倫理書簡121 動物の本能について

 1. われわれが長い間考え続けてきたこの小さな問題について、今日たっぷり時間をかけて説明するとしたら、君が訴訟を起こすであろうことは、僕は分かっています。君は叫びます。「こんなことが道徳〔人格〕と何の関係があるのでしょう?」好きなだけそう言って下さい。しかし、君が訴訟を起こすべき他の人々をまず対置させて下さい。ポセイドーニウスやアルキデモス*1といった人々に、裁判を受けて貰いましょう。それから僕は、道徳に関するあらゆる議論が、必ずしも道徳的な人格を作る訳ではないと言いましょう。2. 人が必要とするものは、食事において、運動において、衣服において、教育において、娯楽において、それぞれ異なります。しかし、これら全ては必要なものではあっても、人格を改善するものではありません。人格についても、様々なものが様々な方向から関わってきます。あるものは人格を矯正し、秩序づけ、あるものはその本質と起源を精査します。3. そして僕が、なぜ自然は人間を生み出したのか、なぜ人間を他の動物よりも上位に置いたのかを探究する時、君は僕が、人格〔道徳〕の問題を後回しにしたと思いますか?そんなことはありません。なぜなら、何が人間において最善のことであるか*2を理解せずして、どんな人格を求めるべきかを、どうして知ることができましょうか?あるいは、人間の自然本性を理解せずして。君が何を求めるべきで、何を避けるべきかを知ることができるのは、君自身がどれほど自然本性に負っているかを理解した時をおいて他にありません。

 4. 君は言われる。「私が知りたいのは、どうすればより欲望を少なくし、恐怖を少なくすることができるかです。私の愚かさを取り除いて下さい。幸福と呼ばれるものは移ろい易い空虚なものであり、この言葉には一つの音節が容易に付け加えられる*3ことを、私に教えて下さい。」君のご要望にお応えして、君の美徳を激励し、悪徳を叱責しましょう。この点について人々は、僕があまりにも過激で、限度を越えていると思うかも知れません。しかし僕はどこまでも悪事を糾弾し、最も荒々しい感情を抑えつけ、結局は苦痛をもたらす快楽の力を弱め、人々の〔悪しき〕祈りを𠮟りつけましょう。それも当然のことです。なぜならわれわれは最悪のもののために祈り、それに祝いの言葉を述べている時点ですでに、慰めが必要となっているのですから*4

 5. ところで、今問題になっていることから離れたいくつかの事柄に関して、少しの間検討することを僕にお許し下さい。われわれ〔哲学者〕はこれまで、動物は自分の「構造*5」について何らかの意識を持っているかということを議論してきました。これが事実であることは、とりわけ次のことから証明されます。つまり動物は自分の身体を、その目的のために訓練したかのような滑らかさと機敏さをもって動かすことができるということです。全ての存在が、その割り当てられた領域において巧みさを発現します。熟練の職人は、経験により道具を易々と扱いますし、舵手は船を上手く操る術を知っています。画家は対象を再現するために、用意された様々な色を素早く選び取り、蝋と作品の間を、手と視線を素早く行き来させます。これと同じように、動物はあらゆる身体の使用において機敏です。6. われわれは優れた踊り手に驚嘆しますが、その理由は、身振りが作品の主題とそこにあらわれるべき感情に見事に一致し、言葉の素早さに動作が完全に調和しているからです。しかし、技術が人に与えるものは、動物の場合は自然が与えます。四肢を動かすのに〔踊りの練習のような〕苦労をする動物はいませんし、身体の使い方に戸惑う動物もいません。動物はこれらの機能を、生まれてからすぐに発揮します。彼らは生まれつき、これについての知識を備えているのです。完全に訓練された状態で、この世にやってきます。

 7. しかし、ある人々は反論します。「動物が四肢を巧みに扱うのは、もし間違った動かし方をすると痛みを感じるからだ。あなた方の学派が言うように動物はそう動くことを〔生まれつき〕強制されている。したがって、動物を然るべき方向に動かすのは恐怖心であって、〔自然に備わった〕意思ではない。」この考えは間違っています。強制された動きはぎこちないものですが、自発的な動きは機敏だからです。動物を駆り立てるものが痛みへの恐怖でないことは、たとえ痛みに妨げられても彼らが自然な動きをしようとすることから明らかです。8. 同じように、立ち上がるために、自分の体の重みに慣れようとする幼児は、自分の力を試し始めると、何度も転んでは涙を流しながら起き上がり、遂には奮闘努力の果てに、自然の求めるところにまで自分自身を訓練するのです。また、硬い背中を持ったある種の動物は、ひっくり返されると、元の状態に戻るため体をよじったり、手足をばたつかせたり横に伸ばしたりします。亀は仰向けになっても痛みを感じませんが、自然な状態を希求してじっとしておらず、再び起きるために体を動かすことを決してやめません。

 9. ですから、これらの動物全てには、自分の身体構造についての意識があり、そのため彼らは四肢を容易に動かせるのです。また、彼らが生まれつきこうした知識を備えていることの証として、体の使い方が不自然な動物はいないということに勝る事実はありません。10. しかし、また反論があります。「あなた方の意見によると、身体構造〔への意識〕とは、肉体に何らかの形で影響を及ぼす魂の主導的原理からなる。しかし、あなた方にも殆ど説明できないこの複雑で精妙な原理を、どうして幼児が理解することができようか?そのような、大多数のローマ市民にとっても定義が曖昧なものを理解するためには、全ての生き物が論理学者として生まれついてくる必要があるだろう!」11. もし僕が「構造〔原理〕そのもの」ではなく「構造の定義」についての理解と言っていたならば、この反論は正しかったでしょう。自然については説明することよりも、理解することの方が容易です。ですから、僕が先に述べた幼児も、「構造」が何であるかは説明できなくても、構造そのものについては理解〔意識〕しているのです。動物も「生き物」が何であるかは説明できなくて、自分が生き物であることは理解しているのです。12. さらに言うと、動物は自分自身の身体の性質については、漠然と、大まかに、曖昧にしか知りません。またわれわれにしても、その本質や構成*6については知らなくても、自分たちが魂を持っていることは理解しており、同じように全ての動物も、自分の身体の性質についての意識を持っています。なぜなら、彼らが他のことを感覚する機能を有していることと同様に、この〔身体に対する〕感覚も有していなければならないからです。彼らはそれに従い、それによって制御されるところのこの原理についての感覚を、持っていなければなりません。13. われわれは誰しも、自分の衝動を駆り立てる何かがあることを理解していますが、それが何であるかは知りません。われわれは努力の意志があることを知っていますが、それが何であるか、どこから来るのかは知りません。ですから幼児にしても動物にしても、自分の主導的原理についての意識はあるのですが、それは定義が明確にされたり、説明されたりすることはありません。

 14. 反論者は言います。「あなた方は次のように主張している。つまり全ての生き物は生まれつき自らの身体構造に適応しているが、人間の〔魂の〕構造は理性的なものなので、人間は生き物としてではなく、理性的な存在として自ら〔の魂の構造〕に適応しており、人間は人間であるという点において自らに親しむ、というのだね?であれば、まだ理性が備わっていない幼児は、どのようにして理性的な存在としての自分自身に適応するのか?」15. しかし、それぞれの年齢においてそれぞれ特有の原理があり、それは幼児の場合と、少年の場合と、青年の場合と、老人の場合とで異なります。彼らはみな、自分の年齢に相応しい構造に適応します。幼児に歯はありませんが、その身体構造に幼児は適応します。歯が生えてきたら、その状態にも適応します。やがては穀物や果実へと成長する植物も、畝間から生えてきたばかりの時にはそれに特有の構造があり、それが力強く育ち、自分の重みを茎で十分に支えられるようになった時にも、黄色く変わることで脱穀の季節を告げ、穂が固く実った時にも、それに特有の構造があります。どのような構造〔原理〕になった時にも、植物はそれを保ち、それに適応します。16. 幼年期、少年期、青年期、老年期はそれぞれ異なります。しかし、幼児、少年、青年であったわれわれは、今も変わらずわれわれ自身です。ですから、それぞれの時期においてそれぞれ異なる構造があっても、その構造に適応するという点では同じです。なぜなら自然は、少年期や青年期や老年期を僕に委ねるのではなく、僕自身をそれに委ねさせるからです。ですから幼児は、その現在の幼児期の身体構造に適応するのであって、将来の青年時代の構造に適応するのではありません。なぜなら、たとえ幼児の中には将来そうなるであろう状態が存在したとしても、生まれた時の状態もまた、自然に即したものなのですから。17. 生き物はまず最初に、自分自身に適応します。なぜなら、それにより他の全ての事柄を探究できる、基準がなければならないからです。僕が喜びを求めるとすると、それは誰のためでしょう?僕自身のためです。ですから僕は自分自身に注意を払う〔適応する〕のです。僕が苦痛を避けるとすると、それは誰のためでしょう?僕自身のためです。ですから僕は自分自身に注意を払うのです。もし僕が全てのことを僕への糧として考慮したいなら、僕自身への配慮が何よりも優先されます。この〔自分自身への〕配慮が全ての生き物の中に存在し、それは後天のものではなく、生まれついてのものです。

 18. 自然は自らが産み落とした子孫〔人類〕を、見捨てることはありません。ですから、最も身近なものが最も確かな安全となるように、すべての人々を自分自身に適応させたのです。したがって、以前の手紙*7でも述べたように、母親の子宮や卵から生まれたばかりの幼い動物であっても、自分にとって何が危険であるかを直ちに知って、死に繋がるようなことは避けるのです。頭上を飛び交う猛禽類の影に、生後すぐに怯える生き物もあります*8

 どんな動物も、生まれつき死の恐怖を備えています。19. 人々は尋ねます。「生まれたばかりの動物が、どのようにして有益なものと危険なものを理解できるのか?」しかし、先ず尋ねるべきは「理解できるかどうか」であり、「どのようにして理解できるか」ではありません。そして、それらの動物が理解できているということは、彼らが最初に行った以上に余計な行動をすることはない*9という事実から明らかです。どうして雌鶏はクジャクやガチョウからは逃げないに、あれほど小さく、また馴染みもない鷹からは逃げるのでしょう?どうしてひよこは猫を恐がるのに、犬は怖がらないのでしょう?これらの鶏たちは危険な事柄についての〔本能的な〕知識を有していますが、それが実際の経験から得られたものではないことは明らかです。なぜなら彼らは経験するより前に、それを避けるのですから。20. さらに、君がこのこと*10を偶然の結果であると考えることのないように申しますが、これらの動物は、彼らが恐れるべきである動物以外を恐れることはないし、〔恐れるべき動物に対しての〕警戒や注意を怠ることもありません*11。彼らは皆、危険なものを避ける能力を、同等に有しています。さらにはその恐怖心が、成長に伴って増大することもありません*12

 したがって、動物が実際の経験を通してその状態に達したのではないことは明らかです。それは生まれつき備わった、自己保存欲求によるものですから。経験が教えることは、遅くて、ばらばらです*13。しかし、自然が教えることは全ての人に同等であり、しかも速やかに伝わります。21. しかし、もし君が説明をお求めであれば、あらゆる動物が、どのようにして有害なものを理解するかをお話ししましょう。動物は自分が肉から成り立っていることを感じています。ですから動物は、肉を切り裂いたり、焼いたり、押し潰したりするものは何か、肉を害する武器を備えた動物は何か、といったことを意識します。そのような動物から、好ましくない、敵対者の姿を想像します*14。これらの過程は互いに密接に関連し合っています。というのも、それぞれの動物は自身の安全について考える際、自分の助けになるものを求めるのと同じように、自分の害となるものを避けるからです。有益なものへの衝動も、反対のものへの嫌悪も、どちらも自然に適ったものです。そうした想像へと教え諭す思索や配慮がなくとも、自然が定めたこととして執り行われるのです。

 22. 蜜蜂がいかに精密に巣を作るかを、君はご覧になりませんか?その分業と労力の割り当ては、いかに完全に調和していることでしょう?蜘蛛がいかに、人の手では真似できないほどの見事な巣を編んでいるかを、君はご覧になりませんか?その糸の配置は、なんと難しい労働でしょうか。糸の柱となるため真っ直ぐ中央に向かって張られる糸もあれば、内側は密に、外側は疎になるように、円を描いて張られる糸もあります。小さな昆虫を捕らえるために蜘蛛が張るこれらの糸は、まるで小さな罠の仕掛けです。23. これらの技術は生まれついてのものであり、教わったのではありません。ですからどんな動物でも、その技術が他の動物よりも優れている、ということはありません*15。ご覧のように、蜘蛛の巣の緻密さはどれも同じですし、蜜蜂の巣の部屋も、全て同じ形〔六角形〕をしています。人の技術が教えるものは何であれ、不正確で不均一ですが、自然は常に、同一なものを配分します。自然が伝えたのは、自分自身を護ることとそのための術のみです。ですから生きることは、学ぶことと同時に始まるのです。24. 生き物が生まれた時、それがなければ生まれてきたこと自体無駄になってしまうような能力を備えて生まれてくるのは、不思議なことではありません。これらは生命を維持するために最初に自然が与えた手段です。すなわち、適応力と自己愛です。これを望むことによってのみ、生命を保つことができました。この望みによってのみ生き物は繁栄した訳ではありませんが、これ無しには何も繁栄しませんでした。どんな生き物でも、自分を軽んじたり、ないがしろにすることはありません。もの言わぬ動物でさえ、他のことには愚かでも、生き抜くことには長けています。ですから、他者にとっては無益な生き物でも、自分自身は大切にすることができるのです*16。お元気で。

 

 

・英語原文

Moral letters to Lucilius/Letter 121 - Wikisource, the free online library

・解説1

 動物の本能について、とても2000年前とは思えないくらい鋭い洞察をしている。

 

・解説2

 さてここでは、動物の魂と人間の魂の若干の違いについて説明する。動物と人間とでは、その思考力や記憶力という意味において、やはり大きく存在が異なってくる。そのことを解説したルドルフ・シュタイナーの書籍から、二つほど引用をさせて頂く。

 

引用その①…動物は人間のような記憶力を持たない

 

 動物に人間のような記憶力がそなわっているかどうかを知ることなどできない、というのは、偏見である。こう考えるのは、観察が不十分だからである。動物が体験を通してどのような態度を示しているかをよく観察してみれば、人間と動物における体験の仕方の違いに気がつくであろう。動物の態度は、記憶が存在していないことをあらわしている。超感覚的な観察は、このことを直接感得するが、超感覚的な観察によらなくても、動物の態度を見れば、感覚的な知覚とそれに基づく思考とによって、同じ結論に至ることができる。

(つまりはセネカも洞察していたように、動物は〔経験に基づく〕記憶ではなく、生得の魂の本能〔正確には動物種ごとの集合意識〕によって意識活動を行っている)

 人間は記憶を、自分の魂の内的観察によってのみ知ることができるが、動物の内面は観察できない、という主張の根底には、決定的な誤謬が存している。人間は、みずからの記憶力を、魂の内観によって知るのではなく、外界の諸事象に対する態度〔関わり方〕の中に見てとることができるのである。どの人間も、この態度を自分に対して、他の人間に対して、また動物に対して、まったく同じ仕方で示している。

 記憶力の存在を内観によってのみ知ることができるというのは、幻想である。記憶の根底に存する力は、内的な力であるが、この力についての判断は、人生と外界との関連に目を向けることによってのみ獲得される。そしてわれわれは、この関連について、動物の場合をも知ることができる。

(つまり動物は自分の人生と外界の出来事との関連を、時間軸を超えて結び付けることはなく、あくまで反射的に過去の経験に起因した行動を取っているということ。例えばペットの飼い主に対する態度や、カラスの賢い行動もそうだとシュタイナーは言っている。)

 

ルドルフ・シュタイナー「神秘学概論」P67~68。「人間性の本質」より。(ちくま学芸文庫 高橋巖訳)

 

 

引用その②…人間の魂の運命と、動物の種〔の集合魂〕について

 

 動物界にはもちろん多種多様な動物たちがいます。自然研究者は、それらの種を近い種とはなれた種に分けます。高次の、より進化した動物は、種の性質を祖先から受け取っただけでなく、祖先たちの諸器官を次第に現在の諸器官にまで変化させてきたことを知っているからです。

 しかし私たちは動物の何に関心をもつのでしょうか。その種としての性質以上のことにではないでしょう。ライオンについては、ライオンの種としての性質が述べられたとき、私たちはそれで十分だと思います。(このあたりは、セネカが述べた「自然は常に、〔動物に〕同一なものを配分する」を思い出させる。)ライオンが一般にどのような生き方をし、どういう行動をとるかを理解したとき、私たちはライオンのことが分かったと思います。その時の私たちは、その同じ性質が同じライオンの父にも子にも孫にもあてはまる、と思っています。動物界にも存在する個々の相違には、それ程注意を向けません。個々の動物を相手にして研究する限りでの注意しか向けません。自然研究者としての私たちにとって、動物研究の基準になるのは、父、子、孫が共有している性質なのです。或るライオンを理解することは、ライオンという種を理解することなのです。この事実を最後まで考え、そのことの意味をはっきり理解しなければなりません。

 このことをふまえた上で、人間の場合には事情がまったく違うことに注意するなら、人間と動物の違いがはっきり見えてきます。どんな自然主義的な研究者も否定できないようなこの違いを知ることによってはじめて、人間の魂の本質がはっきり見えてくるのです。(もちろん偶然だが本書簡121の3節でセネカが述べたことに応えてくれている。)このことは次のように単純化して言うこともできます。―—「人間には伝記がある。しかし動物には伝記がない。」

 

 

ルドルフ・シュタイナー「魂について」P61~62。「人の魂とは何か」より。GA52 1904年ベルリン 。(春秋社 高橋巖訳)

 

 面白いことに、セネカもシュタイナーも、動物の魂と人間の魂は、その記憶や理性の在り方について全く異なると述べている点だ。この手の哲学者は動物は人間以上に賢いとか、人間以上に尊いとかの極端な思想に陥りがちなのだが、そうならないところがやは両者とも素晴らしい。そうであっても、両者とも動物に対する自然な愛情を忘れている訳ではない。むしろセネカとシュタイナーの著作をよく読めば、人間のみならず動物に対しても、真の意味でも博愛心を抱いていた哲学者であることは十分に感じられるのである。

 

*1:前2世紀のタルソス出身のストア派の哲学者

*2:動物と比較した際の人間のアレテーは何か

*3:「felicitas(幸福・成功)」に一音節「in」を付け加えることで、「infelisitas(不幸)」になるという意味。つまり、簡単に不幸になり得るということ。

*4:成功や繁栄といったものは得られたその時点で、すでに苦痛が始まっているという意味。

*5:身体感覚のこと。

*6:つまり細かい「定義」

*7:不詳

*8:じっさいこうした恐怖心は、多くの動物に本能として備わっている。

*9:「人間のように」という皮肉があるかも知れない。

*10:動物が本能的に危険を避けること

*11:動物が見知らぬ天敵を恐れることが偶然ではないのは、鶏がクジャクを恐がったりしないことから明らか、という意味。

*12:人間のように

*13:生まれつきではないし、偶然性が強すぎる。

*14:観察から導かれる可能な限り論理的な説明だが、解説2において動物の本能についてルドルフ・シュタイナーの意見を借りて、詳細に説明する。

*15:当然人間との比較においてこう述べている。

*16:自分を大切にしろ、という意味か。